仕事が嫌いなわけではなかった。大きな不満があるわけでもなかった。だけど菜苗の出した答えは「退職届」に全て託されて、提出された。
「どうしてもなの?有木さんみたいな人、出来たらうちとしては離したくないんだけど。」
上司は何度も菜苗を止めた。しかし、一度決めたら考えを変えないという性格も知っていた。こんな良い職場がないと思う反面、こんな良い所にいては自分が甘えてしまう。もっと、自分を試したい。それが答えだった。

そんなある日、夢を見た。
無音の夢。
白黒の世界。
懐かしい顔が菜苗の目の前にたくさん現れる。
確かにその背景は、昔住んでいた町だった。
目が覚めて、考えた。
答えはなにも出なかった。
だから適当に荷物をかためて、電車に乗った。
何度か訪れたことはあったが、長く滞在はしなかった。
もう住む場所ではないと思ったから、寂しくなるのが怖かった。
約15年住んだ町は、姿を変えずに残っているだろうか…。
そんな不安は駅を降りるなり溶けて行った。

急な坂道を登って、まっすぐな道を歩いて行く。
「イーチ、ニー、サーン、シー…」
少年達が、体操か何かをしている声が聞こえた。
「集合。」
緑の野球帽、白いユニフォーム。昔と変わらない少年達の姿は、校庭の中心に集まった。
「懐かしいなー。」
バレーボール部だった菜苗も時々、外練習で野球少年達が練習する校庭の外側を何回も何回も走った。
「懐かしいな…。」
フェンスから校庭や、校舎、空を見上げた。

あぁ、この空を何度見上げたことだろう。

学校の横の坂を上ると、小さな丘がある。家は建ったりしていないだろうか。駐車場なんかになったりしていないだろうか。
「あった。」
思い出の場所は、秘かに存在していた。
「ふー。」
鞄の中から敷物を出して、寝ころんでみた。桜の葉同士の間から、少し光がこぼれてくる。懐かしい風が吹いた。
【丘にいる。】
一通のメールを送った。
【いつまでそこにいる?】
数分後に返ってきた。
【決めてない。今日仕事?】
【いや、今終わったとこ。
行くからちょっと待ってて。】
目を閉じて、待つことにした。