「自分で立てる?」
ズボンのウェストの部分をつかんで、立ち上がるのを手伝った。もし転びそうになっても、私よりも細くて小さな彼女を支えることは出来そうだ。
「頑張って立っていてね。…よし、座って良いですよ。」
バランスが悪くて、便座に座っても崩れそうだから少し手を添えた。
「大丈夫だよ。」
多分わかっていないと思う。だけど、「大丈夫。」って言葉は魔法だと思うから。
「ワー、ワー。」
そう言いながら彼女は大粒の涙を流した。見た目以上に薄い肩、細い腕。小さなトイレの部屋の中で、彼女の声が響いた。その声に押し潰されそうになった。でもすでに声にならない声に押し潰されているのは、紛れもない。目の前にいる彼女だ。
 寺田さんの涙は何度も何度も見た。ちょっと泣いたくらいじゃもう私はびっくりしない。
「はいよ。」
そう言って、ティッシュを渡し、肩をなでるのが私の役目。
「辛いね、私も同じ気持ちだよ。」なんて軽はずみすぎる事は言わない。でも、わかりたい気持ちは本当。だから、もしも1%でも共有出来るなにかがあるなら、その1%を100%わかりたい。私の目の前で泣いたら、泣きやむまで付き合う。

 「ありがとうって言えたら良いよね。」
「ウンウン。」
「まねしてみて。ありがと。」
「ア…リガオ。」
「おぉ、上手い。」
オウム返しに言うのだって、簡単なことじゃない。寺田さんだって、始めは難しかった。初めて会った時から、彼女のちょっとした変化が、失礼ながら親になったような気持ちで嬉しかった。
 「じゃあ、お元気で。」
「お世話になりました。」
「こちらこそ。これから少しでも楽しくデイサービスに通えると良いですね。今度行くところにはちゃんと伝達してあるので、何かあったらまた病院の方に連絡ください。」
「ありがとうございます。本当に有木さんにはよくしてもらって。」
「いえいえ。」
寺田さんは車椅子の上で、いつものように涙をボロボロ流している。しゃがみこんで、手を差し出した。
「寺田さん。ありがとうございました。」
「ア…リ…ガ…ト。」
途切れ途切れの一音一音が、私の胸にしっかり届いた。
「握手してください。」
「ハイ。」
少し冷たい寺田さんの右手を、私の両手で包んだ。
「頑張ってね。」
こうやって、みんな少しずつ卒業していく。そして、「さようなら」と笑顔で手を振る。このドアを出たら、本当にさようなら。「また逢いましょう。」はなかなか通用しない。「もうここへは戻ってきちゃだめだよ。元気でね。」笑顔にすべてを込めて送り出す。