姫は無意識に『姫』という位置を嫌っている。

それは以前からだ。

だが姫に名はなく、その位置しかなかった為、受け入れてきた。

『姫』という立ち位置を。

だが今、姫には名がある。

『朧』という、姫だけの『存在』が。

俺が与えた、なんの価値もないものだが、姫にとってそれは唯一絶対の財産であるようだった。


「……朧」


そう呼ぶと、姫の瞳に光が戻る。

多分気付いていないのだろうが、唇が緩んだ。

はにかんだような顔になって、淡く微笑んでいる。


…『朧』。


…そんなに、まで。

その、名が。

…そんなに、まで。

俺の渡した、その…名が。


形のない、しかも自己満足にまみれたそれを大切に大切に愛されることに、胸が締め付けられた。

満たされ続ける独占欲に眩暈がする。

足の力が抜けそうなほど目前の存在が愛おしくて、狂いそうになった。


……この、女。

…どう、
してくれようか。

………本当に。


「はい」


慌てたように返事をする姿に、思わず笑みがもれる。

都合のいいことに、姫は俺が名を間違えぬ簡易訓練をはじめたのだと思ったらしかった。

姿勢を正し、真摯に俺の言葉を待っている。

俺はこんなに自分勝手で。

姫はこんなに純粋で。

姫は俺のすること成すことに過分な意味を含ませて、俺を認め続ける。

そうしてそっと、

俺を
待つ。

俺の言葉を『待つ』ひとがいること。

俺の反応を『待つ』ひとがいること。

俺の進む先に『待つ』ひとがいること。

それがどんなに俺にとって奇跡か、姫は知らない。

下賤として生きて来た俺。

下賤と思い続けて生きた姫。


…どうして。

…どうしてこんな女が存在するのだろう。

どうして俺は、この女と出会ったのだろう。


俺にはそれが、本当にわからない。