「…失礼しました」


まだ喉の奥に笑いを遊ばせながら彼はそう言い、微笑んだ。


「行きましょうか」


なぜ笑ったのか教えてくれる気はないようだった。

そして私も、知りたいと思ってはならない気がした。


…踏み込んではならない。


そうどこかで、警鐘が鳴っていた。

近頃、私は恵まれすぎている。

それに甘えて、箍をはずしてはならない。

火照った脳を冷やすように、そう己を律した。

朝、部屋を出ると彼がいる。

挨拶をすると、挨拶が返ってくる。

食事を彼と食べている。

天気や気温の話をする。

季節や草木の話をする。

陽が落ちれば眠る旨に返答が返り、こう加えられる。


『また明日』。


勿論ただの辞令だとわかっている。

明日も傍にいるという約束なわけではない。

でもそれは、その一言は、一日一日確実に私から孤独を剥ぎとっていった。


明日も彼がいる。

明日も彼に会える。

明日も彼の目に私が映る。


その思いは冬に冷えた手足をも温め、夢の中までも多彩な色どりに変えた。

彼は優しく、蕩けるほどに親切で、礼節正しい。

しかしふとした瞬間、線を引く。


『ここから先は入ってくるな』と。


ずきり、とする。

けれどそれは、彼の冷たさではない。

私が自分の立場を忘れ甘えてしまいそうになった時を教えてくれているだけ。

それだけの事なのだとわかっている。

彼が私の傍にいてくれるのは……任務。

それ以上ではない。


…踏み込んではならない。

近づいてはならない。


『西の国の正室』。

彼にとって私は、それ以外の何者でもないのだから。

どんなに優しくても、どんなに親切でも、彼の行為に『心』はない。


深い意味を求めてはならない。

勘違いしてはならない。


…だから。