朧。

私の名。

『私』に与えられた『私』を示すもの。

ここにいるのは『姫』ではない。

ここにいるのは『朧』。

外出するために用意を済ませ、『夫』を待つ、女。

『夫』の『霧夜』を待つ『朧』。


「……朧」


はっとし、顔をあげて振り返ると、彼が私を見つめていた。

視線が合うとなぜか驚いた顔をされ、沈黙される。

考えに耽って、彼が来た事に気付かなかった。

名を呼ばれたあとのこの奇妙な間に、もしかしたら彼は何度も自分を呼んでいたのではないかと気付く。

ぼんやりしていた私はそれが聞こえず、もしや今やっと反応したのだろうか。


「…はい」


遅れながらも返事をすると、何か考えこむように口元に手をやり視線を逸らされた。

やはり私が何か失態をおかしたのだ。

失礼な行いに身が冷えた。

与えられた名に喜びながらそれに反応できなかった自分に自己嫌悪がつのる。

彼の杞憂は理解できる。

今から外に行くのだ。

『夫婦』という設定で。

その場において夫が名を呼ぶのに反応できないのは問題だ。

『朧』。

呼ばれた時点ですぐに反応できないようでは駄目なのだ。

私はこんなに歓喜しながら、その名が自分だと思えていないのか。

自分を『朧』だと思っていないのか。

自分の至らなさに目を伏せた。


「…もしや、何度も私を呼ばれましたか」


そっと聞くと、


「…ええ…。…あ、いえ…」


彼にしては歯切れの悪いものが返ってくる。

私が自分を責めるのをわかっていて、なんとか誤魔化そうとしてくれているのだとわかった。

細部にまで行きとどいた気遣いに、申し訳ない。


…どうして彼は、こんなにも優しいのだろう。

私にはそれが、本当にわからない。


「すぐに名に反応できず申し訳ありません」


どうしようもなく痛む胸の毒を堪えるように謝罪すると、


「…いえ、むしろ…、…いや……」

と、更に歯切れの悪い返答をしたあと、彼はじっと私を見つめてきた。

そして、またしばらく沈黙される。


…不安だと、思われたのかもしれない。


そう思った。