こんな俺が咄嗟につけた、由緒も意味もないこの名が姫は嬉しくて仕方ないのだ。


「……はい」


名を受け入れた姫に淡く浮かぶのは、はじめて見る『幸福』の笑顔だった。


笑って、いる。

姫が。


俺に名をつけられた、それだけのことで。


そして…きっと姫は気付いていない。

自分が今、涙を流している事を。

姫なら、この女ならきっと涙を隠そうとする。

泣いているという事実を隠す。

人の視界を汚さぬために。

この姫はそんな女だ。

けれど今、微笑みながら俺を正面から見つめ涙を落している。


…気付いていないとのだ。


自分が泣いている事を。

気付かない程囚われたという事だ。


『朧』という名に。


「………はい」


朝露のように純粋な雫をこぼしながら何度も頷く姿に、愛おしさがこみ上げた。


……抱きしめたい。


突き上げるような激情が脳を痺れさせた。

抱きしめたい。

抱きしめて、滅茶苦茶に愛して、右も左もわからなくなるほどに熱で侵してやりたい。

決して叶わない願いが胸の内で暴れ狂う。


…あなたが、望む、なら。


ひびのいった隙間から狂気がそう囁く。


あなたが望むなら、すぐにでも……。


ーーーーよせ。


かろうじて存在を残す正気が、その思いを殺す。


―――それは許されない。

決して。

そしてそれは姫の望むところではない。


…決して。


(…ただ)

そう。
ただ、これだけは。

許される。


姫が望むなら。

あなたが望むなら
……呼ぼう。

名を。


その、名を。


涙し、

あなたが抱きしめ、
笑った、

その名を。


『朧』と。


何度も。
何度でも。


それであなたが
笑うなら。

それがあなたに
優しいなら。


呼ぼう。


『朧』。


何度でも。