自分に名がないことを疑問に思わないほど独りでいた女は、仮想でも自分を慰める『名』を考えなかった。

自分で自分を呼ぶことすらしなかった人間に名を聞いた俺は、なんと残酷だったのだろう。

このまま黙っていても仕方ないと思ったのだろう。

無理をするように姫が口をひらいたので

思わず遮った。


……無心、だった。



「『朧』…という名は、いかがですか」



姫が顔をあげて俺を見つめた。

息が、つまりそうになる。


「名乗りたい名がないのであれば、『朧』という名はいかがですか」


あえて『名が無い』とは言わず、『名乗りたい名が無い』という言い方をした。

それを知ってか知らずか、姫は呆けたようにその名を繰り返した。


「おぼろ…」


その儚くも美しい響きに、俺は特別な思いを持っていた。

姫と出会い、姫への特別な感情に揉まれ、否定し、否定しきれず、捨てようとして、それでも生まれるこの慟哭をもてあましていたある夜。


霧が、出ていた。

そして、それに埋もれるように

月が出ていた。


夜と月との境目が曖昧で、まるで溶けあっているように思えた。

そしてその姿は、愛し合うものの最上の姿のように思えた。

霧の夜に抱かれる朧月。

『霧』の『夜』に抱かれる、『月』。

滲む月に、姫を思った。


俺に抱かれる……姫を。


『朧』。

…霞み、掴むことのできない儚い様。


卑しい欲望のままに提案したこの名に恥じて、少し俯く。

言い訳のように、嫌でないのならと添えた。

姫は呆然としたまま微動だしなかった。

そしてしばらくした後、頬と耳を少し朱に染めて息を詰めた。


「………っ」


…嬉しい、のだとわかった途端、

胸が詰まった。