「…というより、常日頃の呼び方も『霧夜』と。私に『様』は要りません」
「でも…」
姫は納得できないように顔を上げる。
「霧夜様は私の鍛練を指導する身。つまりは『師』です。そうお呼びするのは妥当かと存じます」
どのような時も真の礼節を失わないこの女は、清々しすぎて、少々、切なくなる。
「ですが私は姫にお仕えする身」
「けれど…」
「…姫」
埒のあかない会話になりつつあったので、俺は早々にそれを切り上げた。
「少しずつ、変わっていきましょう。あなたも、私も」
ーーーー共に。
そう伝えることは、許されない気がした。
共にいていい存在ではない。
俺は所詮、忍。
目の前の女がたとえ姫でなくてもそれは許されない。
…忘れるな。
俺は『霧』の『夜』。
誰も俺を掴むことはできず
俺も誰かを掴むことは叶わない。
「…ところで、姫はなんとお呼びしましょう」
返して問うと、姫の顔色が変わった。
乏しいながらも感情の揺らめいていた瞳が光を無くしたように淀む。
その表情を見て、思いだした。
『東の国の妹姫は名無し』。
ずっと以前になにかの情報のついでのように知った事だった。
姫は東の国では『あれ』と呼ばれていた。
それは名でもなんでもないものだ。
しかも、『それ』でも『これ』でもなく『あれ』という呼び方に、周囲と姫との距離すらも知れた。
言い淀み、俯く姫の心中が手に取るようにわかった。
名などないと正直に答えれば俺に嘘だと思われることを案じているのだろう。
一国の姫たるものに名がないわけがない。
俺が忍でなく、あの情報がなかったとしたら、そう思っただろう。
でも俺は知っている。
姫の名がないことも。
それでも生きてこれた環境も。