「…ところで、姫はなんとお呼びしましょう」


問われた内容に、さっと心が冷えた。

………『名』。

私の、……『名』。

温かい場所から一気に氷の世界に押されたような感覚に、思わず俯く。


…私に名など、………ない。


それをどう伝えようかと思った。

一国の姫だった身。

一国の正室である身。

それが『名』を持たぬなど、信じてもらえるはずがない。

彼はきっとこう思う。

『下賤な自分に名を知られるのが嫌か』と。

そう思われたくない。

絶対に。

けれど真実を言えば嘘と思われる。


私に名など………ない。


東の国では『あれ』と呼ばれた。

もしくは『陽の姫の妹姫』と呼ばれた。

どちらも『名』ではない。

桂乃皇子には『月の姫』と呼ばれた。

しかしそれも、『陽の姫の付属』もしくは『対の存在』という皮肉だった。

『名』ではない。

私には『名』がない。

そのことをこんなにも惨めに思ったことはなかった。

今までこんなに『名』のことで痛まなかったのは、誰も私を呼ばなかったからだ。

だから気にもしなかった。

自分に名がないことなど。

それにもっと悲しみを持って生きていれば、仮想でも、自分を慰める『名』を考えていただろう。

しかしそれすらしなかった私には答えられる名が無かった。


黙りこんでしまった私を待つようにしばらく沈黙を守った彼は

少しだけ息を詰めたようだった。

その緊張の意味はもしかしたら、私に『名』がないことを悟った証かもしれなかった。

忍の情報網は他国に渡り広大だ。

そんな彼の記憶の片隅に、もしかしたらあったのかもしれない。

『東の国の妹姫は名無し』という情報が。

そして今それを見つけたのかもしれない。

私の沈黙に誘発されて。


…惨め、だった。


無理に嘘をつかなくてよくなった安堵と、軽視されつづけた存在を認識された羞恥が腹を腐らせるようだった。

このまま黙っていても仕方ないと思い、口をひらこうとした時だった。

先に、彼が口を開いた。



「『朧』…という名は、いかがですか」



顔をあげると、どこか戸惑うような表情がそこにあった。


「名乗りたい名がないのであれば、『朧』という名はいかがですか」