長く沈黙を守っていると、しびれを切らしたように店主がため息をついた。


「ほら、旦那がさっさと買ってやるって言わないから奥さん遠慮しちまったじゃないか」


何も知らない呑気なその台詞に、苛立つ。

どうやら鬱陶しいことに、買うか否かを返答しなければ解放してくれないと悟った。

小さく息を吐き、姫にこう尋ねる。


「…欲しいか?」


『夫婦』という立場上敬語を抜く。

それは姫と俺の距離をぐっと縮め、

ただの霧夜と朧という関係が真実なったような愉悦を俺に届けた。


一瞬、脳裏で夢が舞った。


敬語ではなく、くだけた口調で会話する俺と朧。

春夏秋冬身を寄せ合う仲睦まじい夫婦。

決して形を得ることのない幻想はあまりに甘く。

甘すぎて…痛んだ。

俺の問いかけに姫が頬を染めたのがわかった。

しかしそれは、簪が欲しいということではなく初めての外出の記念を求める類のものだと悟る。

美しいものが欲しいとか、俺からの贈り物であるとか、そんな部分を全く関係させない姫の希望は清々しくもあった。

だが俺にとっては、虚しくもあった。

店に入ると、たくさんの品物が目に入ってきた。

どれも姫には役不足に思え、その至らなさが俺と同調した。

姫に似合わぬもの。

釣り合わぬもの。

それはまさに俺だった。


――――簪が欲しい。


そう思った。

俺が選び、俺が姫に買い与えるものであるなら、簪がいい。

そう思った。

いつも身につけられるものがいい。

いつも姫と共に在れるものがいい。

俺の選んだものを常に身につけるということ、それは、俺のものであるという証になるような気がした。

俺のものであるという印になるような気がした。

たとえそれが真実でなくとも、俺はそれに酔いたかった。

それを演じてみたかった。

だが、木の簪は姫に不釣り合いだった。

安物のそれは姫には似合わなかった。

どんなに背伸びをしてみても、所詮木は木。

姫が纏うべきものではない。

そしてそんな安いものしか姫に与えられない自分の程度が、身の程という形になって切りつけて来た。


もし簪を買い与えたとしても、姫はそれをつけるだろうか。


朧ならつけるかもしれない。

しかし『西の国の正室』として、それを身につけ続けることはできないだろう。

そして真実、身につけてはならない。

それは、姫が知らぬところで姫を穢す行為だ。

俺のものだという印を身につけさせる、それは、情交の際に残す花びらの痕となんらかわりない。

男を知らぬ姫を、卑猥な舌で舐めまわす行為だ。

誰もに姫を暴いたと思わせる行為だ。

許されていいわけがない。


俺は簪ではなく櫛を掴み、店主に渡した。