音が広がった。

(すごい…。なんてよく伸びる音…。)

俺は驚いた。

指が象牙の鍵盤に、吸い込まれるような錯覚。

4小節も弾いたところで、俺は夢中になってしまった。

気持が良かった。

こんな気持で弾くのは、本当に久しぶりだった。

俺は、まるでピアノに引っ張られるように、音を追った。

まるで何が大切なものを逃すまいと、必死で追いかけるように。

気がつけば、最後まで弾いていた。

なんだろう、一気に坂を走り切った感じ。

自分でも唖然としていると、背後から優しい拍手が聞こえた。

びくりと、現実に引き戻されて、慌てて椅子から立ち上がる。

「あ、…あの…、すいません、勝手に…。」

驚いたやら、恥ずかしいやらで、しどろもどろ謝った。

霧野さんは笑った。

「ショパンのエチュードだね。」

俺は頷いた。

「嬉しいよ、君のショパンが聴けて。とてもどきどきした。心が揺さぶられるようだったよ。」

そう言ってくれたが、俺は首を振った。

「いいんです、俺、下手くそなの、分かってますから…。霧野さんみたいにうまく弾ける人に聴かれたなんて、すげぇ、恥ずかしい…。」

本音がぽろっと出た。

霧野さんは、珍しく驚いた顔をして、そして笑った。

「おいおい、年寄りをからかっちゃ、いかんよ。」

そして言った。

「君はとても上手だと思うよ。今だって…」

「俺は、霧野さんみたいに弾きたい…。」