六月、つゆのある朝です。

 シルクのようなきりさめが、神社の境内にとうめいなベールを下ろします。
しっとりやわらかい赤土は水色のアジサイを咲かせ、その葉っぱの上でカタツムリがゆっくり散歩を楽しんでいます。
 松の木のきゅっとつまった香りとブナの木の優しい香りが、神社全体を包み込みます。


 子おには古いブナのご神木の中で、まるっ鼻をずずいとふかせてねむっていました。

 大きさはサッカーボールくらい、頭に一本角を持つ空色の子おにです。

 そこへ、でっかいふろしきをせおったひげもじゃ神さまがやってきました。
 ひげもじゃ神さまとは、この神社の神さまのことです。
 本当はもっと難しくてありがたい名前がありましたが、なにしろあごひげがもじゃもじゃだったので、みんなひげもじゃ神さまと呼んでいました。

 ひげもじゃ神さまは、こつんと子おにの一本角をこづいて言いました。

「子おにや、おまえにちとるすばんを頼みたいのじゃ。おきんしゃい」

「う~ん? るすばん~??」




 子おには両目をぐるんぐるんとこすって、眠たげにひげもじゃ神さまを見上げます。
「そうじゃ。実はじゃな、毎年秋にやっとる神さま集会を、今年は夏の始まりに行うことにしたのじゃ」

 神さま集会とは、日本中の神さまが年に一度、秋の日に、西の方にある神社に集まって、一年のことを話し合う会合のことです。


「秋のるすばんは、どんぐりひろいにやってくるリスに頼むのじゃが、その実も青い今は、リスもおらんのじゃよ。もちろん、ただでるすばんをしろとは言わん」
 ひげもじゃ神さまは、子おにのまあるい鼻先にお供え物の大福をぶらさげました。
 大福はいかにもうまそうなにおいがします。
 真っ白で、もっちりやわらかくて、食いしん坊の子おにはぱっと飛びつきました。


「むふもふ。ああ、この大福のつぶあんホクホクだぁ。これは、トメばあさんの大福だ」

「そうじゃ。もう六月も過ぎて、稲もすくすく育っとるからの。みんなうまい供え物を毎日持ってきてくれるわい」




 ひげもじゃ神さまは、こくもつの神さまです。
 こくもつとは、お米や小麦、とうもろこしなどのことで、神社の名前も漢字の『米』をくずした『八十八神社』と言います。


 八十八神社は東北地方にあり、雪深く長い冬が開けて遅めの春がやってくると、すぐに田植えの季節が始まります。
 広大な田んぼのあちらこちらに水がたっぷりと引かれて、すぐそばのもりあがった土手の内側で、待ってましたとドジョウがはしゃぎ始めます。

 この頃になると、農家の人々は秋の豊作を祈って、もちやだんごなどの供え物を代わりばんこに置いていくようになるのです。



「るすばんの間、供え物は全部くれてやるぞ。キクさんのあまからせんべいも、ヤスコさんのよもぎもちも、ダイゴさんの奥さんのごまだんごも、み~んなうまい。今回は縁起をかついで八十八日間の旅行にするでの。その間、みーんな食べ放題じゃ」

「やるやる! おいら、るすばんやるよ」

「ほうか。それじゃ、よろしくの」


 米つぶほどの鳥居もようがたくさんついた大ぶろしきをきゅっと結び直して、ひげもじゃ神さまはほくほくと出かけていきました。



 みえちゃんが初めておまいりにやってきたのは、その三十分ほどあとのことです。





 七月も半ばを過ぎました。
 イチョウの葉っぱは青々としげり、木々は新緑のよい香りをたたせ、アブラゼミは、今日も暑くなりますよと歌います。

 そんな朝です。
 もうお日さまは、熱いまなざしを地面に注いでいました。


 いちだん、にだん、さんだん、よんだん。
 頭に二つのリボンを結んだ小さな女の子が、今日も八十八神社の石段を登っていきます。みえちゃんです。


 さんじゅうご、さんじゅうろく……。
 石段は全部で八十八段あります。
 大人の中には、見上げただけでギブアップをしてしまう人もあるくらいです。 小さなみえちゃんにとっては、それは長い道のりなのです。


 しちじゅうはち、しちじゅうく……。
 ひたいにこつぶの汗をたっぷりのせて、みえちゃんはせっせこ登っていきます。
 こつぶの汗はどんどんつながって、みえちゃんのばら色のほっぺたをつたいます。



 ジーーーーー




 石段が終わりに近づくと、アブラゼミの歌声はいっそう大きくなり、ついには割れんばかりの大合唱です。



「はちじゅうは~ち! ふう、ついたぁ」




 境内に入ったみえちゃんは、いつものように平べったい石にこしをかけました。
 そして、ななめがけにしていた真っ赤なポシェットのボタンをぱちんと開いて、黄色いミニタオルでからだじゅうの汗をぬぐいます。


「そうだった。これ、おこめね」
 冷たくなったミニタオルはキュロットのポケットにつっこんで、もう一度ポシェットを開きます。
 中からちりめんの小ぶくろを取り出すとからからのお米を五、六つぶ、ぎゅっと右の手の平ににぎりしめました。



「よしっと! いくか」



 用意ができると、みえちゃんは、おさいせん箱の方へずんずん歩き出します。 木わくのすみっこにお米を置いたらおまいりの始まりです。



 ガンガラン

(すずをならして、にれい、にはくしゅ)



 心の中でつぶやいて、みえちゃんはしんみょうにことを進めていきました。それから、いつものお願いごとをとなえます。





「どうか、みえちゃんに、おんなのあかちゃんができますように」




 最後に心を込めてせいいっぱいのおじぎをしたら、おまいりの完了です。



「よしっと。はちじゅうはっかいまで、あとはんぶんだ。えい、えい、おー」



 ふわり、キュロットのはしが踊ります。

 おまいりを八十八回続けるとお願いごとがかなう。
 みえちゃんはそう信じていました。



「それじゃあかみさま、またあした」




 みえちゃんはにっこり笑いました。




 その様子をおさいせん箱の裏からこっそり見ていたものがありました。


 一本角を持った空色の子おにです。



「みえちゃんは今日もかわいいなぁ」

 子おにはほっぺたを夕日色に染めて、ぐふふと笑います。
 両手いっぱいにお供え物のよもぎもちとごまだんごを抱えています。

「みえちゃんのお肌は、つきたての白餅よりもやわらかいし、お目目はザラメたっぷりのこしあんよりもつやつやだ。トメばあさんも、ヤスコさんもみんな好きだけどみえちゃんみたいにつやつや、ぴかぴかな子はいないぞ」

 八十八神社にやってくるのはお年寄りばかりです。



「人間ってしわしわだな」



 そう思っていた子おにが、初めてみえちゃんを見たときの衝撃といったらありません。
 本当にかみなりがどどんと落ちたようでした。



 それからずっと、子おにはみえちゃんが大好きなのです。







「みえちゃんのお願いごと、絶対にかなえなきゃ。人間はお願いごとがかなうと、ずっとおまいりに来てくれるけど、かなわないと来なくなるからな。でもおいらにお願いごとをかなえる力はないぞ」


 う~ん、とうなって、今度はかれ葉のようなあまからせんべいをパリッとやったときです。子おにはぴかりとひらめきました。



「そうだ! ひげもじゃ神さまに手紙を書いて、みえちゃんのお願いごとをかなえてくれるように頼んでみよう」



 さっそく子おには準備に取りかかりました。






「あった、あった」


 宝物入れの缶から出てきたのは、真っ青な包み紙です。まるで海のように深い青色が気に入って、取っておいたものです。



「みえちゃんのためだもん。これを使おう」



 次に、転がっていた小石をひろって、頭の一本角をけずります。
 子供のおにに生えている角はロウのようにやわらかく、簡単にけずることができるのです。
 子おにはそれにブナの樹液を少しまぜて、白い絵の具を作りました。
 その絵の具を先のとがった小枝につけて、青い包み紙の上に白い文字を書きます。
 

 読み書きの苦手な子おには、何度も休けいしながら、少しずつ、いっしょうけんめい手紙を書いていきました。