私の背中に、おっとりとした声がかかった。唐突過ぎるそれを私は無視しきれず、ぴたりと動きを止めてしまう。ああ、私のバカ野郎。こうなったらもう無視はできないじゃないか。
 今この状況で私に声を掛けうる人物はたったひとりしかいない訳だが、それにしては意外すぎるぐらい甘い声だった。トーンは低いが響きが優しく、どこかホストのような甘さを含んでいる。
 と、いうか、ここに入ろうとしてるんだからここに住んでいるに決まっているじゃないか。何を訊いてるの、この人は。

「…そうですが」
「だよねえ」

 睨むつもりで見上げたら、一瞬モデルさんかと思うぐらい整った顔立ちがそこにあった。歳は30半ばぐらいだろうか。髪は黒く、高身長。衣服のせいもあってスタイルが良い。そして顔がちっちゃい。透った鼻筋に薄めの唇。目は恐らくツリ気味の形をしているのだが、優しく細められているせいで鋭い感じは受けない。
 綺麗な顔が勿体ないぐらい柔らかく笑って、甘い声が勿体ないぐらい間延びした声で彼は喋る。

「僕ね、明日から君の隣に住むことになった、シノノメって言います」
「…しののめ、さん?」
「うん。東の雲って書いて、シノノメ」

 耳慣れない名字を訊き返したら、シノノメさんは丁寧に漢字の解説までしてくれた。東雲。これで、しののめ?物凄く珍しい名字だ。身の周りはもちろん、フィクションの世界でも見かけない。初めて聞いた。

「これからどうぞ宜しくね。…ええと、榎本、さん?」

 彼の視線が、探るように私の自宅前の表札へと移る。
 私は頷き、そのついでにぺこりと頭を下げた。

「はい。榎本ナツです。…宜しくお願い、します」
「うん、宜しくね。榎本さんは随分と若く見え…、っと」

 恐らくそのまま世間話にもつれこもうとしていただろう言葉を唐突に区切り、東雲さんは自分の手首にある銀色の腕時計を2度見した。
 そして苦笑いじみた表情を浮かべ、小首を傾げて私を見下ろす。

「こんな遅い時間なのに立ち話に付き合わせて申し訳ないね」
「…あ。いえいえ。こちらこそ」
「それじゃ、今夜はこの辺りで。おやすみなさい、榎本さん」