それは、“しーチャン事件”が少しだけ記憶から薄れ始めていた、ある日のことだった。
「……え?」
二人きりの実験室で、私は隣で実験をする聡君のその一言に、思わず操作の手を止めた。
「……嘘、でしょ?」
「残念ながら、ホント」
溜め息交じりのその言葉に、心臓がドクドクと動き出し、呼吸がわずかに苦しくなる。
「さっき、教授に見せられたプリントに名前あった」
「……っ」
「“松元 詩織”と、“仲野 誠也(なかの せいや)”」
彼女の後に告げられた名前に、ほんの少しだけ安心した。
「仲野君も、一緒なんだ」
「みたいだね」
実験を続ける手元から、視線を逸らすことのない聡君によって伝えられたその事実。
――“来年うちの研究室に、あの女入ってくるぞ”。
聡君の口をついて出た“あの女”って言うのは、“しーチャン”のことで。
あの一件以来、すっかり彼女を毛嫌いするようになった聡君。
温厚で人当たりもよくて、人を嫌わない聡君は、唯一、彼女のことだけは嫌いだと口にした。
だから、その事実を告げた時の聡君の声も、いつもよりも低くて……。
それがまた、私の心をざわつかせる。
「大丈夫か?」
「……え?」
ボーっとしてしまった私にかけられた、聡君の心配そうな声。
「アイツが入ってくる頃には、俺はもう卒業してるから……。この前みたいに、胡桃のこと助けられないよ?」
「……うん」
「城戸に任せるしかない」
「大丈夫だよ。春希は私を守ってくれるから」
大丈夫。
この前は、お互いに気付けなかった想いがあって、だからあんな事になったけど。
もうあんな事は起こらないって、信じてる。
全然怖くないって言ったら嘘になるけど、仲野君もいるし。
何よりも、春希の事をこれ以上ないってくらい信じてるから。