…彼女は、どこかの家出お嬢様かなんかじゃないだろうか。
大学に向かうバスに揺られながら、つい何日か前の出来事を頭に巡らす。
5日前。彼女が風邪をひいた。
クーラーをつけっぱなしで寝るからだ、と悪付くと、彼女はものすごい勢いで俺の顔に枕を叩きつけた。枕は固めが好きだが、この時ばかりは自分の趣味を後悔した。
『帰ってくるの、待っててあげたのに』
…いやいや、俺、朝にちゃんと飲み会で遅くなるから先に寝とけって言ったのに。
しかし背中を向けて拗ねる彼女に、俺はただひたすら健気に、謝った。
38.5℃を示した体温計。
冷えピタを彼女の小さな額に貼り終えて、台所へ向かう。
冷蔵庫に発見した一つの林檎。しょうがないから、彼女の好きそうなウサチャンリンゴに剥いてやった。我ながらの出来映えに思わず顔がほころぶ。
機嫌を直して喜んでくれると思ったのに、それを見た途端に曇る、彼女の顔。
「…いらない」
「なんで」
「だって、死んじゃったらどうするの?」
「…はい?」
「だってそれ、毒林檎かもしれないじゃない」
そう言う彼女の火照った頬は、二つ並んだ林檎のよう。
…ああ、『白雪姫』か。
思わず苦笑してしまう。
コイツは本物の馬鹿じゃないのだろうか。あんな御伽話をまだ信じているのだろうか。
それとも、新手の我が儘なのかもしれない。
どっちにしても俺は老婆ではないし、これは毒林檎じゃなくてスーパーの安売りコーナーにあった林檎なのに。
「……てくれたら」
布団の中から聞こえた、くぐもった声。
「ん?」
「…林檎。すりおろしてくれたら、食べてあげてもいいよ」
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