ドアノブに置いた一哉の手が一瞬止まる。
麗子はもう一度、一言一言を確かめながら、一哉の背中に語りかけた。
「私はもう大丈夫。それが言いたかったの。何が大丈夫なのか自分でも良く分からないけれど。でも一哉にそう言わなきゃって、どうしてかそう思ったの。そしたら、走ってた」
そう、それが伝えたかったのだ。でも改めて言葉にするとやっぱり恥ずかしい。
一哉のことだ。この後絶対茶化してくるに決まっている。
「麗子」
一哉が振り返り、麗子は咄嗟に下を向いた。
両の耳がポッポと熱くなり、顔が火照り始める。
やっぱりあんなこと言わなければ良かった。
「麗子、これから一緒にバーに行こう」
「え?」
思いがけない提案に驚いて顔を上げると、想像していた茶目っ気の一哉はなく、硬く強張った表情の彼がいた。
(??)
一哉の瞳の奥が、どことなく翳っている。濁りのあるとても嫌な色。
(こんな一哉、見たことない)
見たことないはずなのに、麗子はこの瞳を知っている気がした。
どうしてだろう?
もう一度、一哉が言う。
「麗子、バーに行こう」
「……どうして?」
麗子の問いかけに、今にも泣きだしそうな顔で一哉がくしゃりと笑った。
ズキッと、胸の奥に痛みが走る。
何か、嫌な予感がした。
そして、嫌な予感ほど当たりやすいのだ。
「話は、そこでするから」
それ以上、一哉は一言も話さなかった。