あの事件のことを―― 早く忘れて欲しかった。

 そして、少しずつ埋めていきたかった。

 昼間、カイトは仕事に行って、自分は家政婦として彼の家で仕事をして。

 たまに、一緒にお酒を飲みにここにきて。

 そんな風にしていれば、もっと自然に話ができるようになるのかもしれない。

 迷いが、生まれた。

 とにかく、気持ちをぶつけようと思っていた。

 うまい言葉をどうしても探せなくて、晩ご飯でも一緒に食べていたら、そんなきっかけも出来るかと思っていた。

 お酒も飲んだ。

 さりげなく伝える言葉を一生懸命検索したけれども、今度はお酒のせいか、それとも隣に彼がいる緊張感のせいか、何も出てこなかった。

 そして、カイトの優しさを見た。

 このまま、穏やかにいまの生活を続けていけば。

 時々、カイトとコミュニケーションを取れば、いつかあの事件のことは薄れていくのではないかと思ったのだ。

 元通りに、戻れるかもしれない。

 伝えたい心と、穏やかな回復を望む心が、ここで初めてせめぎあった。

 それが、迷いになったのだ。

 心をぶつければ、確かにメイの気は済むだろう。

 当たって砕けて粉々になったとしても。

 でも、それは今度こそ完全な決別を意味するものかもしれないのだ。

 言わなければ、このまま彼の家政婦という地位を、手に入れられるような気がした。

 メイは、お酒にちょっと口をつけながら―― ひどく迷った。

 どうしよう。

 伝えるべき言葉も見つかっていない今、現状維持説の方が強い力を持ち始めていた。

 そんな彼女の思考を邪魔するように、周囲がどんどんと騒がしくなる。

「今週は3連休だから、みんな浮かれているみたいね」

 成人式のせいで、明日まで休みだものね。

 女将は、カイトのお猪口にもお酒を注ぐ。

 ああ、そうか。

 自分が過ぎてしまうと、成人式は単なる祝日でしかなくなる。

 それに、ここしばらくの複雑な生活の変化のために、1月の第二月曜日が祝日であることを、すっかり忘れてしまっていた。

 ごちゃごちゃと人が溢れ返り、タバコの煙で店内が白く霞み始める。