そう言うとおじさんは車のダッシュボードから黒い箱を取り出した。それはお雪、あのボーカロイドのディスクが入った箱だ。
 あたしは戸惑った。手を出しかけて、どうしてもその手を伸ばせずにいた。あたしにこれを受け取る資格があるのだろうか?一時の感情に流されてお雪をつき返してしまった、このあたしに……
 あたしのためらいを察したのか、おじさんはこう言った。
「ロール・プレイング・ゲームで言うなら、かすみ君、君はレベルアップしたようなんだ」
 あたしはまた呆気にとられた。はあ?レベルアップ?
「君はお雪の『持ち主』から『友達』にレベルアップした、という意味だよ。これはお雪自身の希望なんだ。だから受け取ってくれないかな?」
 あたしはポカンとした表情で思わず手を伸ばし、お雪のディスクが入った箱を受け取った。そのまま車から降りた。おじさんは体を伸ばしてドアに手をかけ、不意にあたしにこう言った。
「お雪を……僕たちの娘を……よろしく頼むよ」
 そういうおじさんの顔は、どこかうれしそうでもあり、照れくさそうでもあり、そして同時にどこかさびしそうな複雑な表情を浮かべていた。まるで・・・そう、娘をお嫁に出す時の父親の顔って、こんな感じじゃないのかな?
 ドアが閉まり、おじさんが車を出す。あたしは車の中のおじさんに向かって、深々とお辞儀をし、車が見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。そしてお雪の入った箱を胸に抱きしめるように持って家へと足を踏み出した。
 確かにあたしは不幸だ。声を失い、バンドのボーカルになるという夢は永遠に失われた。でも、別の形で音楽を続ける事は不可能じゃない。だってあたしは生きているから。でも雪子ちゃんにはそれすらできない。だって彼女は、雪子ちゃんはもうこの世の人ではないのだから。
 あの猛さんの事はもうあきらめたけど、あたしだっていつか誰かと恋をして、結ばれて、お嫁さんになって、家庭を持って、自分の子供に夢を託す事だって不可能と決まったわけじゃない。
 なぜなら、あたしは生きているから。ほんのわずかでもそういう可能性がないわけじゃない。でも雪子ちゃんにはその可能性はもう完全にない。彼女はもう死んでいるのだから。