特に会話もない食事が終わり、凜は一人で稽
古場へ向かう。
竹刀ではなく木刀を手に取り、深呼吸を繰り
返した。
窓から差し込む月の光が、道場内を照らす。
「…………薫」
凜が素振りを初めて半刻が経った頃、徐に木
刀を下ろして入り口に目を向けた。
「集中し過ぎて気付いてないかと思ってた」
名を呼ばれた宮部は、肩を竦めて姿を現した。
同じく木刀を持ち、凜の正面に立つ。
「ふーん……木刀で試合するのね」
挑発的に言う凜。
木刀は竹刀より当たると痛い。
宮部はいつも凜に打ちのめされているから、
今日は勝つ気でいるように思える。
「痛いくらいがいいんだよ」
「…………。そっちの意味で?」
「剣の腕を磨くにはって事だよ!!てか何だよ
そっちって!」
宮部がはぁと溜め息を吐くのを合図に、互い
に木刀を構えた。
凜はもう誰にも負けられないと、鋭く宮部を
捉らえた。
一つ一つの動きがゆっくりに見え、自分だけ
別の世界の時間で動いているように感じる。
………いつもそうだ。
沖田と試合をした時も、凜の方が時間の流れ
が遅い空間にいるようだった。
沖田はそれに追い付いていたから、本来なら
沖田の方が強いのかもしれない。
ただ、今日早瀬と試合をした時は同じ時空の
中にいるような感覚だった。
その対等な空間の中で、凜は負けたも同然の
結果を得た。
これ以上は、自分で許せない。
凜は力強く踏み込むと、宮部に三段突きを浴
びせた。
二段は防いだ宮部も、三段までは追い付かな
かったようだ。
「…………ったぁ…」
腹に突きを食らった宮部は、情けない声を出
して座り込んだ。
「三段突き……総司の得意技よ」
宮部と目線を合わせるようにしゃがみ、凜は
手を伸ばす。
「防げるようにする事」
宮部の頭に手を乗せ、左右にくしゃくしゃと
撫でた。
「ありがとう」
そう言って、凜は稽古場から出て行った。
今のお礼の意味は、宮部が凜を励まそうと思
って来たのを分かっていたという事だ。
一人宮部は残されたは、ははっと笑う。
でもどこか頬を赤く染めて、頭に触れた。
「何だよ……人の気も知らないで…」
切ないような、嬉しいような……複雑な想い
は、まだ誰も知らない。
引き潮の時間が
長ければ長い程に
波は高く
勢いは強く――
早瀬が帰って来た二日後、漸く帰って来た理由を松平が話した。
薩長は東洋の武器を手に入れ、御所に討ち入る計画を企てているらしい。
今回は新選組にも正式に要請を下し、会津藩と共に長州の制圧を謀るそうだ。
広間に集められた藩士は、皆ざわざわと騒ぎ出す。
東洋の武器とは、とか
刀で勝てるのか、とか
薩長軍は何人だ、とか。
それに答える事なく、松平は隊の編成の話を始めた。
藩邸に残るのは松平と早瀬、少数の藩士に救護班の半数。
御所には直属部隊と他の藩士、監察班が待機する。
「以上だ。出立は明朝、それまでに準備をしておけ」
解散の言葉を合図に、皆すぐに広間を出た。
特攻隊は松平の指示でその場に残り、早瀬も
松平の隣に座したままだ。
「特攻隊は皆と別に動いて欲しい」
足音が遠ざかるのを聞き届けると、松平は徐に口を開く。
「薩長軍の武器は"鉄砲"と言ってな…刀より
優れた物だ」
その言葉に、凜と早瀬以外は息を呑んだ。
刀より優れた物だと松平が断言したという事
は、今回は死傷者が多いと予想しているのだ
ろう。
「だが勝ち目がないと言う訳でもない」
俯いた皆は、それに顔を上げる。
「鉄砲は、攻撃に時間が掛かる。それを上手く
利用して、御所に奴等が攻撃して来た時、そこ
の警護組と挟み撃ちをして欲しいのだよ」
それなりの犠牲は出るやもしれん、と言う松
平は苦しげに眉根を寄せた。
鉄砲は少数の団体より多数の団体の方が狙い
やすい。
……藩士に犠牲は出るだろう。
「分かりました」
「あぁ……頼んだぞ」
松平は、犠牲が出る事は仕方がないと思って
いる訳ではない。
苦渋の決断であったのを悟り、凜は引き受け
た。
だがそれは皆も同じで、広間を出てからは直
ぐに稽古場に向かった。
自分達が、藩士達を守らなければ。
その一心で、それぞれに更に腕を磨き始める。
―――…
その日の夜中、眠っていた筈の凜は目を覚まして起き上がった。
まだ寅の刻だというのに、徐に寝巻きから袴に着替える。
そして腰に刀を挿し、足音を消してそっと外へ出ていった。
三日月の明かりに照らされながら、凜は目的もなく歩く。
藩邸にいたくなかった……いや、いれなかったのだ。
気が付けば、新選組の屯所に着いていた。
無意識の内に沖田に会いたいと思っていたのか、と凜は溜め息を吐く。
そして門番の隊士が凜に気付いた。
「あっ、沖田組長ですよね?少し待っていて下さい」
「え、あ、ちょっと……」
運が良いのか悪いのか、隊士はそそくさと中へ入ってしまった。
ここまでくれば、態々起こしておいて帰るというのはなしだろう。
凜がもう一度と溜め息を吐いた時、足音が聞こえて顔を上げた。
「凜、どうしたの?」
「あ……」
沖田の顔を見た瞬間、凜はまた俯く。
沖田は睡眠の邪魔をされて怒るでもなく、その様子を不思議そうに見ていた。
「……ううん、ちょっと顔を見たかっただけ。ごめん、起こしちゃって」
本当にただ、顔を見たかっただけなのかもしれない、と凜は思った。
沖田の顔を見ただけで、気分が晴れた気がしたから。
「……そう」
沖田は優しげな表情で、目を泳がせる凜を見つめる。
そして再び凜が顔を上げた時、沖田は凜を引き寄せた。
「部屋、来る?」
それが何を意味するのかは、流石に分かる。
いつもなら帰るところだが、凜は無意識に沖田の腕の中で頷いていた。
「凜、今日は何か変」
「え?」
「んや、何でもない」
少し不安を抱きながらも、その後二人は肌を重ね合った。
―――…
数日が過ぎ、会津藩にはぴりぴりした空気が張り詰めていた。
長州制圧は、とうとう今日となった。
御所待機中に長州が来れば…危険な戦いが、幕を開けるのだ。
凜達特攻隊は、皆落ち着かなかった。
待機中に何度も厠に立ったり、うろうろしたり。
流石に凜も、今回は落ち着いていられない。
藩士を踏み台にするようなものなのだから、一人でも多くの命を守らなければ。
そんな気持ちでいっぱいだ。
それに――…
「――何だと?新選組は会津公から、直々に出動要請を命じられたのだぞ!」
新選組も来る。
今回は相手の武器が優れているという事もあって、池田屋の時とは違う。
嫌な予感というのは、当たるものだ。
「そんな話は聞いておらぬ」
凜は近藤と会津藩士が揉めているのを見て、一度気持ちを落ち着けて間に入っていった。