「いい匂いしてる?」

突然、背後から声がして、
「え?」
振り向くと、怜樹が、真っ白なバスタオルで髪を拭きながら、部屋の入口に立っていた。

「匂い?どこかで何か作ってるの?」
そう言って、魅麗は、窓の外を見渡した。
怜樹は、笑って言う。
「違うよ。風の匂いさ」
「風の匂い?」
「うん」
「?…………」

魅麗は、返答に困った。
怜樹も、窓辺に近寄る。
「ほら、いい匂い!」
怜樹は魅麗の横に立って、目を閉じ、風の香りを感じている様。
魅麗は、そんな怜樹を漠然と見ていた。

「しない?いい匂い」
黙っている魅麗に尋ねる。
「……、しないわ~。風に匂いなんてあるの?」
「あるさ!」
「そう……」
「ほら、いい匂い。最高に天気がいいはずだ!」
「うん…天気がいいのはわかるんだけど…」
「あれ?わからない?」
怜樹は、目を丸くしている。
「わからないわ。そんな事、思ったこともないし…」
「そっか」
「そうだよ。不思議な事、言い出すんだから~」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「じゃあ、これからは思ってみてよ。それで、今度香りを、かいでみて。きっと、風の香り、わかるから」
「…そうなの?…」
「うん」
「そっか。わかった」
「うん」
怜樹は、安心したように笑った。
そして、窓辺に肘をついて、風に当たりながら、髪を乾かす。

そんな怜樹を見ながら、魅麗は、絵に付いていた、涙の跡を思い出した。
その事を聞こうか聞くまいか、聞くにしても、何て尋ねようか、どう切り出そうか考えていた。
考えながら、ベッドへ歩み寄り、静かに腰をおろした。
すると、自然と言葉が出てきた。
魅麗は、静かな声のトーンで口を開く。
「怜……」
呼ばれた気がして、怜樹は振り向いた。
そして、少しドキッとし、動揺していた。

魅麗に、そんなふうに呼ばれたことがなかったからだ。
怜樹は、魅麗のことを名前で呼ぶのだが、魅麗からは、名前で呼ばれたことも、そんなふうに呼ばれたことも今までなかった。
思い返すと、『ねぇねぇ』とか、そういう呼び方だ。
怜樹は、聞き返そうとした。けれども、魅麗が、悠然と座って、真面目な顔をして自分を見つめていたので、何故、そんな表情をしているのかと、その方が気になり、怜樹は言葉を呑んだ。