全ての力を消耗してしまったクリストフはよろけるようにして、地面に腰を下ろした。
「すみません・・・、情けないですが、わたしは当分動けそうにありません。少し休んでから、またきっと追いつきますので、貴女は先に行ってくださいね」
疲労しきったクリストフは、もはや話すことも気だるい様子で、荒く息をしている。これ以上彼に無理を強いる訳にはいかない。
まだ、闘いは終わった訳ではない。今、サンタシとゴーディアの騎士達も、きっと全力で王都の人々の避難をすすめてくれている筈だ。そして、今やこの地の王となったフェルデンは、ヴィクトル王が命を賭けて守ろうとしたこの国を守る為、きっと奔走していることだろう。
朱音は突然ひどい目眩を感じ、その場に屈み込んだ。
「どうしたんですか、アカネさん・・・?」
自分もひどく辛い筈なのに、クリストフが心配そうに朱音の表情を覗き込んでくる。
「・・・大丈夫です・・・、ただちょっと眠くて・・・」
こんな時だというのに、急激な眠気が朱音を襲い始めていた。そして、その異変にクリストフ自身も気付いていた。今にも彼女が消えて無くなりそうな、そんな気配を彼は感じ取ったのだ。
クリストフは朱音の肩をそっと抱くと、その耳元で優しく囁いた。
「アカネさん、もしわたしが貴女の全てを知っていると言ったら、どうしますか?」
朱音は眠い目をこすりながら、クリストフの彫りの深い顔を見つめた。
「それ・・・、どういうことですか・・・?」
クリストフはもう、朱音に限界が近付いていることを感じ取っていた。
「アカネさん、貴女はもう十分よく頑張りました。いいえ、期待以上のことを成し得たんですよ。今、この国は崩壊寸前です・・・。ですが、貴女がこの国や人々を守ろうと動いたことで、魔族と人間の間には、共に闘うことを通して新たな絆が生まれ始めています・・・」
彼の言うことは正しかった。魔族と人間の長き争いは今、終結しようとしていた。
「それに、“自分探しの旅”の答えは、きっともう貴女の中で出ているのではありませんか? そろそろここいらで旅を終息させませんか、アカネさん」
確かに、朱音は気付かない間に魔族と人間の長き闘いを終結に導いてきたのかもしれない。
けれど、この地ではまだ闘いは続いている。そして、この闘いは朱音自身が招いたものに他ならないことも事実。この闘いの犠牲になった人達が数多くいることもまた同じであった。ルイやヴィクトル王も例外ではない・・・。
これ以上誰も死なせる訳にはいかない。そして、誰よりもあの金の髪の騎士を思うと今ここで闘いをやめる訳にはいかなかった。
「駄目です。今わたしがここで投げ出したら、ルイやヴィクトル陛下、多くの人達の犠牲が本当に無駄になってしまう・・・。それに、アザエルはわたしを信じてファウストを追ってくれてるんです・・・」
朱音が消滅してしまうその時は、もうすぐそこまで迫っていることは、このひどい眠気がよく表していた。
「わたしは悪い男です・・・。どうか許してください。貴女に謝らなければならないことがあります・・・」
クリストフが何かを朱音に打ち明けようとしたとき、
「クロウ!!」
突然の呼び声に、二人は振り返った。
「・・・フェル・・・デン・・・?」
真白い馬に跨った金の髪の騎士が、馬の手綱を引き寄せ、じっと馬上から朱音を見つめていた。
「やっと追いついた! ファウストを止めるのにお前の力が必要だ! 乗れ!!」
フェルデンは手を差し出した。
朱音はこくりと頷き、立ち上がる。
「アカネさん、今なら貴女を助けられるかもしれない。友人のわたしが止めても無駄でしょうか・・・?」
珍しくも、クリストフが懇願するかのように朱音の手を掴むが、朱音はその手をゆっくりと離した。
「ごめんなさい、クリストフさん。今行かないと、わたしはきっと後悔します・・・。だから・・・」
哀しそうに微笑むと、クリストフは解けた手をぐっと握り締めた。
まだ彼の息はひどく荒い。
朱音はフェルデンの差し出す手を力強く掴んだ。逞しく優しい彼の手は、ひどく温かかった。
「行くぞ! アザエルが王都の外れで奴を足止めしている・・・!」
フェルデンは白馬の腿を強く蹴った。馬は風のように駆け出す。
走り去っていく白馬の姿を見つめながら、クリストフは悲しい笑みを浮かべて呟いた。
「わたしは悪い男だ・・・。わたしはあの儀式の日、参列者に交じって、全てを見ていたんです。覚醒したクロウの中身が貴女だとを知って、わたしは貴女を利用した・・・。君なら、この世界の魔族と人間の争いを止めることができるかもしれないと、わざと城の外へ連れ出したのですから・・・」
そして、焦げ茶の瞳から一滴の泪を溢した。
「あれだ!!」
フェルデンが馬の足を止めて見上げた。
その先では、赤い飛竜と黒い飛竜が空中戦を繰り広げている。王都から馬で一時間程離れたこの場所で、アザエルは朱音の願い通りファウストの足止め
に尽力していたようだ。
ファウストは飛竜の背で得意の炎弾をアザエルに放ち、アザエルは今までに
見たこともない攻撃を繰り出していた。彼の腕に蛇のように巻き付いた水は、意思に応じて自由に曲がりくねり、さまざまな方向へと攻撃の方向を瞬時に
変えることができる。それはまるで、変幻自在の鞭のようにも見え、先は鋭い
剣のように尖っていて、ときには同時に四方八方に枝分かれして攻撃を加えて
いた。
「どうやらやっとご到着らしいぜ」
ファウストはふんと鼻を鳴らすと、地上からこちらを見つめる二人の姿をア
ザエルに目配せした。
しかし、当のアザエルは、既に二人の存在があったことを知っていたかのように、目も向けず無反応なままファウストに新たな一撃を加えようとした。
「おっと、危ねえなあ! あんた、自分の主人との感動の再会だろう? ちっとは驚いたり動揺したりとか、なんかねぇのかよ」
アザエルの止まない攻撃を寸での所でかわしたファウストは、呆れたような溜息をつき、美しい碧髪の男を見やった。
無言のまま尚も攻撃の手を止めようとしないアザエルに、ファウストは“氷の男”と呼称されるだけはあると内心苦笑を漏らした。
「名残惜しいが、あんたの相手はここまでだ。クロウ王が追いつくまでに、俺はあんたを仕留めたかったんだが・・・。残念なことに、こっちも味方が到着しちまったみたいでな」
ぐんと勢いよく赤い飛竜を反転させると、目にも止まらぬ速さでファウストは真上へ急上昇した。
すぐに雲の上へと見えなくなってしまった赤い飛竜の姿を追おうとするが、スキュラは真横からの突然の強い突風に煽られ、それを妨害されてしまう。強く空中で揺すられ、スキュラは空中で数度回転しながらバランスをなんとか取り戻す。
アザエルはその目まぐるしい中で視界の端に新たな人物の姿を捉えていた。
(ヘロルド・・・!!)
じっと目を細め、アザエルは出現させていた蛇ような水を消失させる。碧く長い髪は、流れる水のようにたおやかに宙をひらひらと舞っていた。
しかしその美しい顔はどこまでも冷たく、そして何もかもを見透かしたような眼に、朱音は思わずドキリとしてしまった。
その直後である。わざとなのか、そうでないのか、アザエルの身体がすっと宙を回転し続けるスキュラの背から離れ、落下していった。
「アザエル!!!!」
咄嗟に叫んでいた朱音だったが、アザエルは地面に直撃する直前に、多量の水を地に出現させたのだ。
朱音が実際にこの術を目にしたのは、これで三回目になる。流れ出た水の上に、流されることなく自然に着地すると、アザエルは冷ややかな表情を相手に向けた。
着地したアザエルのすぐ目の前に佇んでいたのは、ヘロルドその人であった。
曲がった背に出っ張った頬骨。何度見ても虫唾の走るその姿に、朱音は思わず身震いする。
(あいつ、白亜城のあの高さから、落下して死んだんじゃなかったの・・・!?)
朱音は状況を飲み込めず、眉を顰めた。あの時、確かにアザエルの出現させた水流にのまれ、城の下へと押し流されていったヘロルドの姿を朱音は目にしていたのだ。
「クロウ、あの男はアザエルに任せ、俺たちはファウストを追うぞ」
フェルデンの声に我に戻された朱音は、こくりと頷いた。
『グルルル』
軽やかにスキュラが朱音達の跨る馬の前に舞い降りた。まだ幼い飛竜は、主人がこの場にやってくることを心待ちにしていたかのように、大きくぐりぐりした目を嬉しそうに朱音へと向けた。その背は、もう今すぐにでも乗せられるようにと差し出されている。
「スキュラ、わたしが来るまで、よく今までファウストを足止めしてくれていたね。さ、今からもう一飛びするよ」
馬から飛び降りた朱音は今にも目蓋の降りてきそうな眠い目をこすりながら、光沢のあるスキュラの背の鱗を優しく一撫でした。
「フェルデン、貴方のこの国を、きっと守ろうね!!」
朱音はフェルデンをスキュラの背に誘った。
幼い飛竜の子は羽を広げ、ぐんと空へと舞い上がった。二人の若き王をその背に乗せて・・・。
「なんの真似だ、ヘロルド」
既にアザエルの口からは敬称さえも消え去っている。
「無礼であるぞ、たかが罪人ごとき身分の者が」
鉤のような鼻に幾筋もの皺を寄せ、忌々しげにアザエルを睨んだ。
「無礼だと・・・? 一体なんの冗談だ。貴様のような卑しい反逆者に、なぜわたしが敬意を払わねばならぬ」
確かに、アザエルにとっては、ゴーディアの王であるクロウを陥れ、王座を乗っ取ろうとしているこの男は、反逆者以外の何者でもなかった。
「何だと・・・!? さっきから聞いておれば、よくも・・・! この死に損ない目が!」
ヘロルドは怒りを露にし、ぶるぶると骨ばった拳を握り締めた。
「まあ、反逆者を排除するのにちょうどいい機会だ。」
アザエルは冷淡な微笑を浮かべると、手に水の剣を出現させる。
驚きで目を見開いたヘロルドは、無意識に一歩後ろへ下がり、ごくりと鍔を飲み込んだ。
しかし、懐に仕舞ってある重みに気付き、自らをいきり立たせた。
(何を怯えている・・・! わたしにはこれがあるではないか・・・! そうだ、わたしとて、この石さえあれば、奴と同等の魔力を携えていることに変わりは無いではないか・・・! わたしは最高司令官という地位に相応しい魔力を持っているのだ・・・!!)
ヘロルドはくくくっと噛み殺した笑みを溢すと、鋭い眼光を放つ嫌らしい目をアザエルに向けた。
「何が可笑しい」
アザエルの不機嫌な声に、ヘロルドは返した。
「排除だと・・・? 笑わせるな、死に損ない。本当にこのわたしをそう簡単に倒せると思っているのか。今や、ゴーディアで国王の次に強い魔力を持っているのだぞ。そう、お前を除いてな!!」
そう言い終わらぬうちに、ヘロルドは節ばった両の指をアザエルに向けた。
「死ねえええええ!!!」
それはまさに一瞬だった。
アザエルは直感で危険を感じ飛び退いたが、それを完全に避けきることはできなかった。それはまるで目には見えない鋭く巨大な刃が飛んできたかのようであった。
ぼたぼたと赤黒い血を垂らし、アザエルが肩口を押さえた。掠っただけのようだったが、傷口はぱっくりと割れ、深くまで到達したようだ。
「・・・」
この攻撃を胴に受けたとしたら、さすがのアザエルも一溜まりも無い。アザエル自身、この男の力を見くびり過ぎていたのかもしれない。
「ふん、うまく避けたな。だが、次は外さぬぞ!!」
自分の攻撃が、アザエルを掠めたことで、一時的な興奮状態になっているヘロルドは、瞬きすらも忘れてしまう程、異常な汗を噴き出している。
再び風の刃を繰り出そうとするヘロルドから、アザエルは少し距離をとる必要を感じ取った。今まで、この男の魔力を目にする機会のなかった分、その力は未知数だ。無闇に近付きすぎると良くない。アザエルの肩口の傷がその証拠であった。
アザエルは手に出現させていた水剣を消失させると、両の手を地に翳した。
先程出現させた水流のせいで湿った地から、水が蒸気となって宙に上がり始めた。それは、すぐに真白い霧となり、ヘロルドの視界を遮る程までになる。
「小細工をっ・・・!」
だがそれは、風使いを相手に通じる術ではなかった。ヘロルドは強風を起こし、あっという間に霧を吹き飛ばしてしまう。
無論、アザエルもそのことを計算に入れてはいた。
何も霧の中に身を隠そうなどという安価な考えではなく、単にこの男から間合いをとるだけの時間稼ぎをする為の策であった。お蔭で、アザエルはヘロルドから相手の魔力を伺いながら闘うだけの間合いをとることに成功していた。
「えらく逃げ腰ではないか、嘗ては魔王の側近と呼ばれたお前が・・・」
ヘロルドの挑発するようなセリフに、アザエルは全く耳を貸そうとはせず、さてどうやって相手の弱点を見極めてやろうかと冷静に思考していた。
「だがな、俺からそんな距離をとったところで、お前には俺の攻撃は読めぬだろう」
ヘロルドは構わずに腕を振り上げた。
再び放たれた風の刃。目に見えぬ攻撃に、アザエルは勘を頼りに避けることしかできない。
またもや、避けたと思われた攻撃は、僅かにアザエルの足の腿を掠めていった。
ぱっくりと裂けた傷からは、また血が流れ出す。いくら致命傷ではないとは言え、このままこうした傷を受け続けるとなると、いずれ身動きが困難になる筈だ。
ヘロルドは、またもや自らの攻撃がアザエルに命中したことに興奮を覚えていた。そして、自分がもしやこの碧髪の男よりも上なのではないか、という自信を感じ始めていた。
「次は胴と首を切り離してくれるわ!」