「ちょっと、真咲(まさき)! またあんたわたしのおやつ摘み食いしたでしょう!?」
「なんだよ、ケチ! 将来有望な空手師範にちょっとくらい融資しとく気ないのかよ!」
懐かしい真咲の声変わりのしていない声。朱音はぐいと真咲の服の袖を引っ張っている。
「姉ちゃん、おれとやるのか!? よし、じゃあ勝負だ」
ふんと腰に手をやると朱音はまだ自分より背の低い弟を見下ろした。
「わたしの方が数段上なのよー、勝てると思う訳? 容赦しないから」
姉弟喧嘩はいつものこと。ただし、新崎(にいざき)家では少々喧嘩の色が違っていた。
二人は対峙したまま構えをとる。しばし睨み合った後、『ガラリ』とふすまが開かれた。
「ちょっと、またあんたたち喧嘩? こんなところでやめてちょうだい。ふすまや障子の修理代も馬鹿になんないんだから」
うんざりしたように言い放つと、二人の母は履いていたスリッパをおもむろに脱ぐと同時に二人の頭目掛けてスパンと投げつけた。
「いた!」
「いてっ!」
はいはい、やるなら道場でやってらっしゃい、と半ば無理矢理部屋から追い出される。これはよくある朱音の日常の一ページであった。
再び訪れた暗闇。
朱音はごしごしとまた目を擦った。
(今度はわたしの記憶・・・?)
どうしてクロウの記憶と朱音の記憶がこうも織り交ざって朱音の前に現れるのか、朱音には理解できない。
しかし、どちらもひどく懐かしい確かな記憶。
「陛下」
すぐ近くで声がして、朱音は驚いて顔を上げる。
「ルイ!?」
そこに、優しげに微笑む少年が暗闇の中でいつの間にか佇んでいた。
「陛下、お願いです。いつもの陛下を取り戻してください。いつものお優しい陛下に・・・」
悲しげに目を伏せるルイに、朱音は思わず首を傾げた。
「え?」
じっと暗闇の奥を指さすルイの視線の先を追うと、うっすらと不気味な黒い気体が渦を巻いているのが見える。
「あれはなに?」
きょとんとして朱音はルイに向き直る。
「あれは陛下です」
ルイの言う意味がわからず、朱音はもう一度じっと目を凝らした。
禍々しいほどの黒い空気。
迸(ほとばし)る電流。不気味で高らかな笑い声。
その手は、すでに意識を手放そうとしている血だらけの褐色の少年の首を掴み、今まさにその首をいとも簡単にへし折ろうとしていた。
「今のはファウスト・・・?」
異常な出血量。すでに地下道の壁は崩れ、あの空間を保っているだけでも奇跡的と言えた。
「陛下、お願いです。陛下」
いつの間にかルイによって掴まれていた朱音の手には、預けられていたペンダントが握られていた。
「あれは・・・、クロウ・・・」
怒りにより我を失い、暴走している少年はクロウに違いなかった。
「今の陛下ならば力の暴走を抑えられる筈です。陛下、お願いです」
朱音はぐっと手を握り締めた。
アザエル・・・、魔王ルシファー・・・、ベリアル王妃・・・。
そして、真咲・・・、朱音を生み育ててくれた母・・・。そして父。
(そうだったんだ・・・。クロウと新崎朱音は別人なんかじゃなかった・・・。彼の記憶も力も、その全部は今のわたし自身だったんだ・・・)
視界を遮っていた霧が晴れたかのように、朱音は胸の底から漲る力を感じていた。自分を包み込む、万物の力を。
「・・・ぐっ、クロウ王・・・」
朱音は血だらけの青年の首からぱっと手を離した。
もうこの辺りの地下の壁も長くは持つまい。少し離れたところで、数人のドラコの手下たちが呻き声をあげて蹲(うずくま)っていた。
どさりと硬い地面に転がったファウストは虚ろな目で朱音を見上げていた。
「早くここから逃げて。ここの天井はもうすぐ崩れるだろうから」
渦巻いていた黒い気体は消え去り、少年王は狂気に満ちた笑みから元の穏やかな表情に戻っていた。
「な・・・ぜ・・・、俺を殺らねぇ・・・」
朱音ははっきりと、しかし静かに言った。
「わたしはわたしだから」
その日、白亜城では忙しなく人々が動き回っていた。
サンタシが誇る騎士団の出陣が間近に迫り、兵や周囲の者もそれに備えて着々と準備を進めていた。
フェルデンはそんな中、リストアーニャで遂に見つけることのでき無かった少女の行方を案じていた。
本来ならば、兄であるヴィクトル王に旅の報告を済ませた後、再び彼女の捜索にあたるつもりだった。それが、戦の再開でそれも叶わなくなってしまったのだ。
既に数日前にディアーゼ港からゴーディアの魔笛艦隊を迎え撃つ為にヴィクトル王が艦隊を送り出したばかりだった。ヴィクトル王の放った間諜から、ゴーディアの魔笛艦隊がサンタシを目指し、海を最短距離で突っ切ろうとしているという最新の情報が入った為だ。
あの嵐の一件以来、リーベル号の船長アルノが辞任を申し出ていたが、その願いは却下され、彼が再びその艦隊を率いることとなった。
しかしながら、このリーベル艦隊はこの十年に戦闘に備えて着々と準備を重ねてきたゴーディアの魔笛艦隊の船に比べると、明らかに劣っていた。そして、船の数から言っても圧倒的に敵側の方が勝っている。
おそらくは海上での闘いは負け戦になるだろう。そうなれば、フェルデン率いる騎士団を中心とした地上戦は余儀無くされるだろう。サンタシの領土に攻め込んで来るだろうゴーディアの兵を食い止める為、騎士団はこの日、戦場と化すだろうディアーゼ港へと出立する予定でいた。
フェルデンは自らの過ちにより、戦が再開されたことをひどく後悔していた。そして、この戦でたとえ命を失うことになろうとも、このサンタシの地と、
兄であるヴィクトル王を命懸けで守り抜くと密かに心に決めていたのだ。
「フェルデン殿下」
ふと、馬の背に必要な物資を結びつけているその背後から、部下である騎士に声を掛けられた。
「ユリウスか」
何か物言いたげな小柄の騎士は、真剣な眼差しでそこに立っていた。
「何か用があったんじゃないのか?」
何か言おうとして、言い出せずにいるユリウスに、フェルデンが先に問い掛けた。
「ユリ。リーベル号での嵐の晩、おれはあの船の一室でアカネに会ったと話したよな?」
こくりと頷いたユリウスに、フェルデンは続けた。
「あの暗闇の中で、アカネはおれと一度も言葉を交わそうとしなかった・・・。それだけじゃない、おれから逃げようとまでしていた・・・」
フェルデンはあの夜のこと思い出していた。
激しく揺れる船内。倒れた積荷の下敷きになりかけた少女を庇い、二人は互いの心臓の音が聞こえる程までに近くにいた。
確かに香ったチチルの香油の香り。
「アカネなのか・・・!?」
と訊ねたけれど、彼女からの返答は無かった。怯えたように自分を押し退けるようにして離れた彼女。
そしてそこへあのロジャーという紳士が現れた。
「私はアカネさんの友人です。今はそれだけしか申し上げられない」
彼ははっきりとそう言い、更にこう付け加えた。
「それは、彼女が貴方に会いたいと願わないからです。貴方は悲しみのあまり、あまりに盲目になりすぎている。もっと心の目で物事を見てみてください。そうすれば・・・真実が自ずと見えてくる筈です」
彼の言った言葉で、フェルデンは盲目だった自分に気付くことができた。失ったとばかり思っていたアカネが、別の姿で存在していることを知った。
けれど、フェルデンはその一言が気掛かりでもあった。
これ程彼女に会いたいと願っても、当の彼女が自分に会いたくないかもしれないという考えがどうしても頭から離れないのだ。
「アカネは・・・、おれとの再会を望んでいないのかもしれない・・・。彼女はおれを恨んでいるのかもしれいないと思ってな。もしおれがアカネに会いたいと行動することが、彼女にとっては迷惑でしか無いとしたら・・・」
フェルデンが全てを話し終える前に、ユリウスが言葉を挟んだ。
「殿下、アカネさんはきっと今でも殿下に会いたいと願っていると思います。だって、そうでなければあんなに近くまで戻って来たりしないと思いません? きっと、殿下に直接会えないような特別な理由があったんですよ」
ユリウスの読みは正しかった。けれど、まだ二人は朱音とクロウ王の関わりについて気が付いてはいない。
苦笑いをしたフェルデンに、ユリウスが励ますような顔で言った。
「殿下、何があっても、この戦を勝ち取りましょう・・・! そして、サンタシを守り、その時こそ必ずアカネさんを捜し出しましょう!!」
こくりと頷き、フェルデンはユリウスの小柄な背をぽんと叩いた。それは、フェルンデンの精一杯の感謝を込めた返事であった。
すぐにでも彼女を見つけ出し、連れ帰りたい思いは変わらないままだったが、その思いは今はそっと胸の中に仕舞っておくことにした。自分の我儘で部下や仲間達の命を危険に晒すことはできはしない。
「ユリ、騎士団を城門前に集結させろ。ディアーゼ港に向け出立する」
ヴィクトル王は疲労しきった目蓋を左の指で指圧していた。もう眠りにつかないままこうして机と玉座を行ったり来たりしている日が何日か続いていた。
「いけませんな、陛下。お顔の色が優れませんぞ。今貴方がお倒れになれば、それこそサンタシの行く先はありませぬ」
呆れたように、ディートハルトが傍の腰掛け椅子から声を掛けた。
「分かっている。しかし、そう暢気に眠っておれる状況ではあるまい・・・」
今頃、負け戦と分かっていながら送り出したリーべル艦隊が海上でゴーディアの魔笛艦隊と激しい闘いを繰り広げている頃である。
「愚かであった・・・。もっと戦闘用の船の開発に費用を注ぐべきであった。いや、もっと人材を育成しておくべきだったのか・・・」
すっかり艶をなくしてしまったヴィクトル王の金のウェーブがかった髪は、より一層疲労を際立たせて見せる。
「確かに軍事費に割いた費用はこの十年少なかったでしょう。しかし、わたしはこの十年に陛下がなされてきた政策があながち間違いだったとは思いませんぞ」
ディートハルトは先王の後を継ぎ、このサンタシを支えてきた歳若いヴィクトル王の姿を一番近くで見続けてきた。
この十年の間に、絶対不可能だとまで言われた停戦まで持ち込み、更に長い戦争で苦難を強いられてきた民のことを一番に考え、軍事よりも生活向上に費やしてきた。
そのお蔭でサンタシの民がどれ程救われてきたことか。“賢王”とまで呼ばれるに値する、王としての責務を全うしてきたことに変わりは無い。
「サンタシの街や村々を見てみなされ。今やどの国よりも治安は安定し、民の暮らしは潤っております。警備隊の長官を担っておる身ではありますが、わたしの仕事はこの二年ほぼ無いに等しいものでした。せいぜい民衆同士の喧嘩の仲裁程度のものです」
だからこそ、こうしてヴィクトル王の傍に仕えることができたというのも事実であった。
「ディートハルト、お前はわたしを責めることをしないのか? 艦隊の敗北は明らかであるのに、わたしはそれをみすみす送り出したのだぞ」
有能なアルノであるからこそ、きっと祖国を守る為に最期まで退くことはしないだろう。例えそれがどんな不利な状況に追い込まれたとしても、残りの一隻になるまで魔笛艦隊に果敢に立ち向かっていくことは分かっていた。
だから困る、とディートハルトは溜息を漏らした。
王はいつだって国を守る為に部下を利用しなくてはならない。たとえそれが、使い捨ての駒になろうとも・・・。それを知っているだけに、この王は賢王と呼ばれるに値する男になりえたのだろう。
しかし、それはいつだって自らの首を絞め続けてきた。
「陛下、我国の誇れるものは、艦隊ではありません。ですが、海上戦である程度戦力を削ぎ落とすことができれば、我々に勝機は十分に有り得ます。彼らは愛する母国を守る為の犠牲ならば、たとえそれがどんな結果になろうとも本望な筈です。それは、このディートハルトも同じこと・・・。そして、貴方の実弟、フェルデン・フォン・ヴォルテヴィーユ殿下はサンタシ最高の騎士です。彼の率いる騎士団が必ずや地上戦で敵の侵攻を防いでくれる筈です」
逞しい腕をぐっと胸の前に構え、ディートハルトは顔の傷を引き攣らせながらにかりと笑った。
「陛下。このディートハルトに、今一度騎士団復帰のご許可を! そして、フェルデン殿下の手助けをぜひともわたしに!」
驚きとディートハルトの歳をも感じさせない言葉に、ヴィクトル王はふと顔を上げた。
「ディートハルト、我弟の助けとなってくれると・・・!?」
頼もしい剣士の一言で、ヴィクトル王は僅かに希望の光を見た気がした。
すっと椅子から立ち上がったディートハルトは、ヴィクトルの机の前で礼の形をとった。
「よし、そちに騎士団総司令官補佐役を命ずる。良き軍師として、良き戦友として、我弟を頼む」
「はっ」
ディートハルトがふっと口元を綻ばせて顔を上げるほんの僅か直前に、慌しく家来が部屋のドアを叩いた。
「陛下・・・! 陛下・・・!」
「何事だ、入れ」
息せき切って入室してきた近衛兵は、慌てて跪くと、報告を始めた。
「陛下、ゴーディアの新国王を名乗る不審な輩が城を訪ねて来ました。不審な点が多いので、捕縛しようと試みたのですが、城内でまんまと逃走、現在も捜索に全力を挙げております」
不可解な報告にヴィクトルは眉を顰めた。こんなに厄介なときに、人騒がせな悪戯をするどこぞの誰がいたものだ、と呆れて溜息を溢す。
「こんな時に一体何をしておるのだ。その自称ゴーディアの国王とやらは一体どんな馬鹿なのだ」
近衛兵はごほっと咳をすると、顔色を伺いながら報告を続けた。
「まだほんの子どもです。ひどく汚らしい格好をしていましたので、この騒ぎに紛れて金品を盗みに入った泥棒猫か乞食でしょう」
その話を聞いて、思わずディートハルトは苦笑した。
「おい、ここの兵はどうなっておる。この緊迫した時期にこの気の緩み用はなんたるか! たかが子どもに城の警備を簡単にすり抜けられるとは、この城には腑抜けの兵ばかりが残っておるのか!」
どすのきいたディートハルトの怒鳴り声に、ひっと近衛兵は飛び上がり、頭を下げた。
「もっ、申し訳ありません・・・! すぐに捕まえて参ります・・・!」
物凄い勢いで部屋を飛び出して行った近衛兵の後姿を見送った後、ヴィクトル王はやれやれと椅子の背もたれにもたれ掛かった。
「しかし・・・、その餓鬼んちょとやらは、本当にこの時期に何を考えておるのか・・・。ゴーディアの新国王を名乗り、一人で城に乗り込んで来る気概さは認めるに値するが、なんと命知らずな・・・」