涙で滲む視界の中で、フェルデンのブーツが泥でひどく汚れていること、そしていつも部屋にやって来るときには必ず置いてきてくれる剣を今日は見につけたままにしていることに気付く。おそらく、訓練を中断してここに駆けつけてくれたのだろう。
「*****、******・・・」
入り口の辺りでその様子を見守っていたロランが何やらフェルデンに話をし始めた。
驚いた様子でフェルデンが立ち上がりロランを振り向く。
「****!?」
「***。********」
二人のやり取りは真剣そのものであった。
「フェルデン殿下、アカネが急に言葉を解さなくなったのは、おそらく、彼女にかけられていた魔術の効力が切れたからでしょう・・・」
「それは本当か!?」
「はい。実際、今アカネの身から魔術の気配は消え去っています」
そんなやり取りがあったことなど知りもしない朱音は、とにかくどうして自分がこんな状況に陥ってしまったのか、必死に考えていた。
「ロラン、君の術でなんとかできないのか?」
いつも冷静で十七という若さで騎士団の指揮官という任に就き、たった二年で数々の功績を挙げてきたこの青年が、この出所もわからないただの少女を前にすると、なぜか取り乱していることに、ロラン自身少々驚いていた。
「できないことはありません。しかし、僕の専門は結界術です。以前かけられていたような術をアカネに施すとなると、相当の時間を要するかと・・・」
戸惑いを隠せず、フェルデンは椅子の上で小さくなっている朱音を見やった。
「これ以上時間を無駄にする訳にはいかない。アカネは元の世界に戻りたがっている。そのチャンスを奪いたくはない・・・」
ロランも小さく頷いた。
時空の扉を作り出すことのできる唯一の場所、セレネの森の鏡の洞窟は百年に一度地殻変動によって出現する未知なる力を持つ聖域で、その力を発揮することができるのは日数にして六十日の間のみ。そしてこの洞窟が出現してから、もう既に五十日が経過していた。
「この際言葉などどうでもいい。この機会を逃せば、アカネはアースに戻る術を失う」
そう言ったフェルデンは、どんなことをしても朱音を元の世界に返してやりたい気持ちでいっぱいだった。
出会った当初は、純真で飾らないこの少女に興味を抱き、幼くして亡くした妹の面影を抱いてはこのままここにいればいいのに、などと不謹慎なことを考えることも度々あったフェルデンだった。
しかし、毎晩家族や元の世界を懐かしんでは帰りたいと泣く朱音の姿を見ているうちに、自分がどれだけ身勝手な願いを抱いていたのかを思い知り、そして深く後悔したのだった。純真で可憐なこの少女の本当の幸せとは、元いた世界で家族と共に暮らすことなのだから、自分はどんなことをしてもその幸せを守りたいと強く心に決めたのである。
「言葉の弊害は厄介ですが、この際送り届けてしまえば何の問題もありません。
術の切れた今のアカネならば、敵に気配を察知される心配もないでしょう」
ロランはいつか自分が約束した、無事アースに送り届けるという言葉を思い出していた。
「鏡の洞窟が力を失うまで既に十日を切りました。あまり早く送り返してしまうと、再び敵がアカネを攫ってきてしまうことも考えられます」
フェルデンはこくりと頷くと、意を決して言った。
「よし、ぎりぎりまで粘るぞ。そして期限ぎりぎりにアカネをアースへと送り返す!」
突然大きな声を出したフェルデンに驚いて、朱音がビクリと身体を震わせて、椅子からずるりと滑り落ちた。
「アカネ!」
慌ててフェルデンが床にペタリと尻餅をついたアカネに駆け寄ると、起き上がるのに手を貸す。
「フェルデン殿下、しかしながら、時空の扉を開くには僕の力をもってしても丸一日はかかってしまいます。それに、先日穢された聖域を浄化する作業もしなくてはなりません」
ロランはちらりと涙目の少女を見ると、すぐさまフェルデンへと視線を戻した。
「どのくらいかかる?」
「穢れの具合によります」
アカネを起こし終えると、フェルデンはロランを見つめた。
「よし、君に全て任せる。陛下にはおれから話して許可を貰っておこう。準備が整い次第直ぐに出立を。敵がまだ潜んでかもしれない。騎馬隊の第三小隊を護衛につけよう」
ロランはフェルデンに礼の形をとると、
「御意に」
と応えるとすぐさま早足で部屋を後にした。
何やら真剣な面持ちでフェルデンとロランがやり取りをした後、突然に早足でロランが部屋から出て行ってしまったことに不安の表情を浮かべている朱音をフェルデンはぐいと引き寄せた。
驚きで朱音は目を見開き、耳まで真っ赤に染める。
二人きりになった部屋の中で、何が起こったのか、朱音はフェルデンの腕の中に抱き寄せられる形で納まっていた。フェルデンの引き締まった長身の身体は、逞しくとても安心できた。服の布ごしに聞こえてくるフェルデンの心臓の音が、朱音の耳にしっかりと響いてきた。
「*******・・・」
相変わらず言葉の意味はわからなかったが、優しい声は朱音のパニックを起こした心に深く沁みこんでくる。
「大丈夫、きっと帰れるから・・・」
フェルデンは、愛おしいと思えた少女を抱き締めずにはいられなかった。
たとえ、言葉が通じなくとも。
一ヶ月以上もの間、城の部屋の一室に閉じ込められるような形で過ごした朱音だったが、この日は朝から様子がおかしかった。
いつもなら煌びやかなドレスをエメに半ば強制的に着せられるのだが、今朝は動きやすいスリットの入った上着にぴたりとしたズボンを着せられ、何度もエメは目を潤ませながらしきりに何かを訴えかけてきていた。
そうするうちに、フェルデンの手により慣れない馬に乗せられてやって来た先は、あの見覚えのある山。いや、森である。確か、以前ヴィクトル王がセレネの森と話していた。
それに今日初めて城の外に出たことで驚くべきことがわかった。
部屋にあったあの絵画の中の城は、朱音自身がいた城だったのだ。
言葉が解らない為、フェルデンに城の名前を訊くことは適わなかったが、城の周囲に広がる広大な野や美しい湖、そして崖下に広がる森は絵のものとそっくりであった。
(わたし、あんなに綺麗なお城で暮らしてたんだ・・・)
崖下に広がる森が今朱音達のいるセレネの森であった。すぐ裏手にあるものだとばかり思っていた森だったが、切り立った崖を降りることはさすがに難しく、ぐるりと馬で回って森へ降りた頃には、すっかり日が落ちていた。
「******」
フェルデンが朱音に何やら囁くと、懐かしいいつしかの洞窟が目に入ってきた。
「あっ・・・」
驚いてフェルデンを振り返ると、ブラウンの瞳がふわりと優しく綻んだ。
フェルデンは、朱音を元の世界に返してくれようとしている。今思えば今朝のエメの必死な訴えは、別れの言葉を朱音に伝えていたのかもしれなかった。
「*****!」
フェルデンと朱音の乗る馬に気付いた見張りの兵士が何やら叫んで敬礼をとると、洞窟の周りで護衛をしていた他の兵士達も慌てて敬礼をとった。
フェルデンは自分が先に馬を降りると、朱音が降りるのを手伝う。朱音は、すっかりこの青年の優しさに甘えきってしまっている自分を恥じた。
一人の兵士の案内で、二人は洞窟の中へと足を踏み入れた。
朱音は息を呑んだ。
一ヶ月前、アザエルに連れ去られたあの日に見た、あの金色の光の穴が、洞窟の奥にぽっかりと口を開いている。穴のすぐ近くには、しばらく見なかったロランが呪文のようなものをぶつぶつと唱えながら、穴に向かい合っていた。
ロランの顔には疲労の色が濃く見られる。おそらく、ここ数日徹夜でこの作業にあたってくれていたのだろう。いつかした朱音との約束の為に・・・。
朱音は胸が熱くなるのを感じた。
あれだけ憎まれ口を叩いていても、ロランは朱音を見捨てたりはしなかった。
そしてフェルデンも・・・。
今夜は雲が多く、二つの月は見えない。
「ロラン・・・」
朱音はロランのすぐ近くまで寄ると、小さな声で『ありがとう』と言った。
この言葉は、エメから教わった、数少ないこちらの世界の言葉だった。ロランの霞がかったブラウンの瞳が驚きで見開かれている。その頬にちゅっと朱音は軽く口づけた。みるみる赤く染まる。思い返せば、こんなに豊かな表情を見せたロランは今が初めてかもしれない。
金色の穴は既に安定していて、今なら悠々と朱音が入っていけるだろう。
(帰れるんだ・・・)
喜びで手が震えそうになりながらも、チクリとなぜか胸が痛んだ。
「フェルデン・・・」
振り返ると変わらない笑みの青年が立っていた。でも、その顔はいつもよりもどこか淋しそうだ。
別れの時が迫っていた。これを逃すともう元の世界には戻れない、なぜか朱音はそんな気がしていた。
でも、この一ヶ月という期間、自分を自分の妹のように気に掛け、励まし、優しく接してくれたこの青年の温かくて逞しい手と永久にさよならするには、あまりに辛すぎた。
はらりと頬を伝うものに気付き、朱音は手の甲でそれを拭う。息もできない程の辛さ。
(そうか、わたし、いつの間にかこの人のこと好きになってたんだ・・・)
今更気付いてしまった自らの想いに、思わず苦笑してしまう。
ふと見上げると、美しい青年の顔がすぐ近くまで迫っていた。
「フェル・・・」
名を呼び終えぬうちに、朱音はぐいと強くフェルデンの腕の中に引き寄せられた。
「ラ・レイシアス・・・」
切なげに朱音の耳元で囁いた言葉の意味はわからない。でも、朱音は懸命に背伸びをしてフェルデンの背中に腕をまわし、抱き返した。一層強く抱き締められる形になった朱音だが、次の瞬間驚きで目を見開いた。
唇にあたる温かい感触。フェルデンが自分の唇に口付けていたのだ。
ほんの数秒後、勢いよくフェルデンに突き飛ばされた朱音は、そのまま金色の穴の中に入ってしまった。
「や・・・!」
次に目を開けたとき、朱音は草の上で一人倒れていた。
金色の穴は朱音が通った直後、ロランの手によって素早く閉じられてしまったのだろう、周囲にそれらしきものは見当たらない。
「う・・・そ・・・。」
愕然としながら朱音はそこら中を暗闇の中探し回る。
「フェルデン・・・!! フェルデン!」
さっきまですぐ傍にあったフェルデンの気配はどこにも感じられない。もう、二度と彼に会うことは叶わないことだけは朱音にも理解できた。
「ラ・レイシアスってどういう意味だったんだろ・・・」
朱音は草の上にへたり込み、まだ耳に残る優しいフェルデンの声を何度も頭の中で反復していた。
すっかり日が暮れてしまっていることだけはわかるが、何せ朱音は何も持っていない。時間を確認することなどできる筈もなかった。
まだ頬に残る雫を服の裾で拭き取ると、朱音はしっかりとした足取りで歩き始めた。暗い山の中。あの夜と同じ虫の鳴き声や梟の声が聞こえる。
確かにここは朱音の元いた世界だった。いつまでもこんな山の中に座り込んでいる訳にもいかないし、朱音は月明かりのを頼りに足を進めた。
少し開けたところから下を見下ろすと、小さく町のネオンが見えた。あれは朱音の住む町に違いなかった。
(よし、ここは町の裏手にある望月山(もちづきやま)だ。この山ならそんなに高くはないし、町にも十分歩いて帰れる)
そう確信して、朱音は足を速めた。
山の麓には確か交番があって、駐在さんが日替わりで寝泊りしている筈だ。そこで助けを求めよう、と心に決め朱音は足元に気を配りながらこんなことを思い出していた。
(望月山って名前の由来は、どんなに天気の悪い日でも不思議と雲がかからないから、いつだって月がよく見えるってところからきてるんだっけ。確か、社会の先生がそんなこと言ってたよな・・・)
元の世界に戻って来れたことは本当に嬉しい。でも、もう一つの世界、レイシアに何か大切な物を置いてきてしまったような空虚感は消し去ることができなかった。
ぐっと拳を握り締めると、朱音は突然行方を眩ませた自分を余程心配しているだろう家族に、どんな言い訳をして説明しようかと思考をそちらに逸らす。
(きっとすごい心配してるよな・・・。突然知らない男に拉致された、なんて言ったら信じてくれるかな?)
戻ってきた今も色々と問題は山積みだ。
そうこうするうちに、いつの間にか山の麓まで無事に下りてくることができた。迷わずにここまで来れたことに感動しながら、朱音はとうとう明かりの灯る交番に向かって勢いよく駆け出した。
(やっと家へ帰れる・・・!!)
あと数メートルで交番に着く、というその瞬間、急に自分の足が自分のものではないかのようにぴたりと止まる。
すぐ近くの交番のガラス越しに警官が動く影が見えている。
(な、なんで!?)
ここから叫べば中の警官が気付いて出てきてくれるかもしれない。なのに、声さえ出せない。嫌な汗が背中を流れた。
「申し訳ありません。少しの間術を掛けさせていただきました」
先程まで存在さえ感じながったのに、ふと背後で声がした。振り向こうにもびくともしない朱音の身体は、すぐさま誰かの肩に担がれてしまう。
「!!」
担がれた拍子に視界の端に見覚えのある碧い髪が入ってきた。
(アザエル・・・! どうして・・・!?)
それと同時に、自分がこれからどうなるのか、簡単に想像できた。この男にレイシアに再び連れ去られるのだ。
「このようなことになったのは全てわたしの失態です。あの時、どんな理由があろうとあなたから目を離すべきではなかった」
感情の篭らないアザエルの声は、まるで人形のように担がれている朱音の耳にやけに冷たく響いてきた。
(怖い・・・、この人一体何者なの? なんでわたしなの・・・?)