「殿下、残念ですが一度城に戻らねばなりません。我々には、サンタシを背負う大切な任務があります。ヴィクトル国王陛下が首を長くしてお待ちです・・・。アカネさんという人を探すのはその後でも遅くはありません」
 ユリウスの判断は正しく、私情に走りかけていたフェルデンに冷静さを取り戻させた。
「そうだな・・・。お前の言うことが正しい」
 フェルデンは、サンタシの騎士という以前にサンタシの王子でもある。自らの意思よりも、国や民を優先して考えねばならない。そして、ゴーディアと緊迫した状態の続いている今は、まさにそうされるべき時だった。
「おれが勝手だった・・・。白亜城へ戻ろう」
 馬車がすぐ脇を通り過ぎたのはまさにこの時だった。
 フェルデンと朱音の距離は布を隔ててはいたが、両手を広げた程の僅かな距離。こんなにも近くをすれ違ったにも関わらず、互いに気付くことは無かった。
 そして、二人はこの後一気に離れて行ってしまうこととなる・・・。一度は船の中で互いの心臓の音まで聞こえる距離まで近付いていたというのに。それはまるで、満ちた潮が引く様によく似ていた。


 白鳩は目がいい上に利口だった。
 人探しは得意分野で、特にクリストフの頼み事となれば、彼女は尚更精を出していた。美しいゴーディアの少年王が彼女に名をつけたが、まだクリストフはその名前で一度も呼んだことはなかった。
 けれど、白鳩はその名が気に入っていた。そして、その名をつけてくれた少年王のことも・・・。
 白鳩とクリストフの出会いはまさに奇跡だった。
 自由気ままな暮らしを望んだクリストフが、風に乗って大空を飛んでいたとき、一人と一羽が出会ったのだ。いつも青い空の下にぽつりと飛ぶ小さな白鳩だったが、生まれて初めて隣で共に飛ぶ者が現れた。
 クリストフは彼女に語りかけた。
「君も一人かい? 自由はいいね・・・、けれど時に虚しい・・・」
 自由を選ぶと同時に、彼は多くを捨ててきたようだった。一人ぽっちの白鳩は、彼の心に共鳴したのかもしれない。

 しかし、白鳩は少年王の姿を見つけることに苦労していた。
 なぜなら、ここはリストアーニャ。彼はどこか空からは見えにくいところに閉じ込められているのかもしれなかった。空からは同じような民族衣装を身につけたリストアーニャの女性達や、荷馬車がたくさん行き交い、その中から彼を探し出すのは至難の業である。
 クリストフ自身もそのことをよく理解していた。だからこそ、白鳩が少年王を見つけられないでいる間も、文句一つ言わず街の人々から地道に情報を得ようと努力し続けていた。
「明後日の奴隷の競り市はどこで行われるかご存知ですか?」
 街ゆく人々の中には、人身売買で辛い思いをした者も少なくなく、そう尋ね歩くクリストフを軽蔑の目で見つめたり、碌に返事をしない者もいた。仮に返事をしても、その辺りの貧乏商人では競り市の正確な位置まで知らない場合が多く、やっと得た情報は、国の北の辺りだと大まかなことだけだった。
(まずいな・・・、明後日までになんとか間に合わせなければ・・・)
 もし競売にでもかけられて、所有者ができてしまえば、また話がややこしくなってしまい兼ねない。その為、クリストフは何としてもその前に、朱音を取り戻さなければならなかった。
(仕方がありませんね、手っ取り早く空からそれらしい場所を探す方法を取るしか無さそうですね・・・)
 日は既に傾き始めていた。
 長時間の飛行はできないクリストフだったが、そうも言っていられない。彼は風を起こしても問題ないように、人や建物などが無い場所を求めて歩き始めていた。
「旦那~~~~~!!!!」
 裏返りそうな声が聞こえ、クリストフはふと振り返る。
「良かった・・・! 捜してたんすよっ」
 汗びっしょりになりながら、息を切らしたボリスが古ぼけた時計棟から駆け降りてくるところだった。ボリスの前方を白鳩がパサパサと円を描きながら飛び回っている。朱音を見つけられないでいた代わりに、ボリスを探してきてくれたようであった。
「旦那、アカネ嬢から頼まれたんす。旦那を競り市まで連れて行ってくれって・・・」
 予想外の人物の登場に、クリストフはきょとりと目を瞬かせた。
「ボリス、あなた、アカネさんと一緒じゃなかったんですか?」
 うっと言葉に詰まったボリスが気まずそうにもじもじと両手の人差し指をくっつけたり離したりしながらクリストフの表情を伺う。
「えっと、その・・・。旦那が帰ってくるのが遅いんで、アカネ嬢に外の様子を見てくるように頼まれちまって・・・、そしたらタイミング悪く奴隷売りの奴らが来やがったもんで・・・」
 片眉を吊り上げると、クリストフは腕組みをする。
「なるほど。出るに出られなくなって、そのまま隠れていたと・・・?」
 ボリスはもじもじと指を動かしながら、情けない顔でこくりと小さく頷いた。
「まあ、あなたの立場も分からないでもないですが・・・。一応こうして居場所も探ってくれてきていたようですし、信じましょう」
 クリストフはぐいとボリスの服を引っ張った。
「だとすれば、少しでも早い方がいい。さ、さっそく行きますよ」
 訳が分からず、へ? っと首を傾げるボリスにクリストフは言った。
「高いところは平気ですか?」
 ボリスが何か答えようとした瞬間、びゅうと強い風が吹き上がり、二人は宙へと浮き上がった。

「ぎいやああああああああああああ!!!???」

 ボリスの耳をつんざくような叫び声。
 クリストフとボリスの二人は、勢いよく天に舞い上がる。
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」
 ボリスの死に際のような悲鳴は強風によって掻き消されていった。
 朱音は一人になった檻の片隅で、与えられた薄手の毛布にくるまり、夕刻に起こった出来事を思い出していた。

「早く出ろ! もたもたするんじゃねえ、ガキども!」
 奴隷売りの大男達が鞭を片手に檻の中の子ども達を追い立てた。子ども達はべそをかきながら、檻の外へと出されていく。どうやら、競り市の開催場所へと到着した模様だった。
 カロルはぎゅっと朱音の服を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。
「早く出ろ! 煩わせるな!」 
 苛立ち始めた男が鞭を持つ手を震わせ始めたので、朱音は何とかカロルを宥めて一緒に檻の外へと出ようとした。
「おっと、お嬢ちゃん。君はここで降ろさないぜ」
 眼帯の男が、にやりと不気味な笑みを口元に浮かべ、縋り付くカロルを無理矢理朱音から引っぺがした。
「アカネお姉ちゃん・・・!」
「カロル!」
 不安と恐ろしさでカロルは泣き喚いている。
 しかし、朱音にはどうすることもできなかった。
(きっとなんとかするって約束したのに・・・。ごめんね、カロル・・・、皆・・・)
 ぎゅっと立てた膝に顔を埋めるようにして、朱音は蹲った。
 今頃になって、ベッドの下に隠したアザエルの身体が心配になった。
 クリストフはあの後あの宿に戻ったのだろうか? アザエルの隠し場所に気付いてくれただろうか? もし気付いて無かったとしたら、昼間にボリスに会った際に一緒にお願いしておけば良かったな、等と。
 ふと昨晩の夢を思い出す。あまりに幻想的で、不安定な幼いクロウの記憶。しかし、あまりに悲しい記憶だった。あの可憐なベリアルという女性はクロウの実の母ではかった。遠い記憶だというのに、なぜか朱音にも、クロウがあの女性を愛し愛されたいと強く願っていたことがわかる。
「クロウの本当のお母さんは一体どこにいるの・・・」
 なぜかひどく胸が痛んだ。この痛みはきっとクロウ自身の胸の痛みに他ならない。朱音は、訳のわからない感情に固く目を閉じた。
「フェルデン・・・。わたし、どうしたらいい・・・?」
 もう叶わないとはわかってはいても、朱音は彼の温もりが恋しくて仕方が無かった。
 寂しいとき、辛いとき、どんなときも優しく逞しい手で頭を撫でてくれた彼の手や心の温もりが、以前にも増してあまりに恋しすぎる。あの吸い込まれそうなブラウンの瞳を、もう一度見つめ返すことができるなら、今の朱音はきっとどんなことでもするだろう。
 船の暗闇の中で、あんなにも近くに彼を感じることができたことは、まさに奇跡だったのかもしれない。それも、彼は今のクロウの姿に気付くことなく、朱音の亡霊でも見たかのような反応だった。
 もしこの世に神が存在するのならば、あれは一種の神からの贈り物だったに違いない。
「フェルデン・・・、貴方に会いたい・・・」


 クリストフとボリスは、木陰に身を顰め、巨大なテントを見つめていた。
「旦那、さっきのありゃあ・・・、魔力だろ・・・? ひょっとして、魔光石か?? じゃなきゃ、あんた自身が魔力を持ってるとか・・・?」
 しっと人差し指を立て、クリストフが咎める。
「今はそんなことを話している場合ではありません。それより、競り市が行われる場所とはここで間違いないですか?」
 こくりと力強く頷くと、ボリスは声を顰めて言った。
「旦那・・・、間違いねえ。ここは奴隷の競り市の会場だ・・・」
 ボリスが嘗ての忌まわしい記憶を思い出したかのように、狭い眉間にこれという程の皺を寄せている。
 次々と荷馬車が到着し、競りに掛けられるであろう子ども達がテントの中に連れ込まれていく。
「旦那、アカネ嬢はもしかするとここにはもういねえかもしれねぇ・・・」
 ぼそりと呟いた痩せた男に、クリトフが顔を顰(しか)める。
「どういうことです?」
 申し訳なさそうに、ボリスは朱音の乗った馬車の跡をつけて知った事実を全てクリストフに話した。そして、昼間に朱音に頼まれた内容も。
 クリストフはふむとしばらく考え込むと、すっくと立ち上がった。
「旦那、一体どこへ行くんで?」
 ボリスが慌ててその後を追う。
「つまり、彼女の頼みはこうだ。“自分はいいから捕まった子ども達をうまく逃がして欲しい”」
 クリストフはくくくっと苦笑を漏らした。
「アカネさんの言い出しそうなことだ・・・」
 不思議そうに首を傾げるボリスに、クリストフは言った。
「旦那・・・?」
クリストフは風を集め始めた。それも、特大の風だ。
 テントをバサバサと揺さぶり始めた風は、まだまだ威力を増し続ける。ふわりとボリスとクリストフの身体が宙に浮かび上がる。
 グンっと掬い上げるような強風は、近くの物という物を吹き飛ばし始めた。
「なっ、なんだ!? 突風か!?」
 テントの入り口付近で見張りをしていた男達が、異変に気付き騒ぎ始める。
「駄目だっ、変だぞ!? やばいっ、吹き飛ばされる!!」
 テントの支柱にしがみつき、必死に飛ばされまいと抵抗する男達だったが、テントもグラグラと大きく揺さぶられ始めた。
「どうなってんだ~~~!!!!!」
 より一層強く巻き起こった風に、ふわりと巨大なテントが宙に浮かび上がった。そこら中に人や物が飛びたくっている。
(こんな巨大な物を飛ばしたことはないんですが・・・、全ては貴女の為ですよ、アカネさん)
 クリストフは相当の集中力と精神力を消費しているのか、苦しそうに眉を顰(しか)めながら風のコントロールに全てを注ぎ込んだ。ちょっと気を抜けば、テントごと地面に落下させてしまいかねない。そんな危うい一か八かの賭け。
 この状態でそう長くは飛べまい。クリストフはリストアーニャの北にある検問所を、少ししけば隣国アストラの砂漠に到達することを知っていた。もともとは、朱音を連れてそこまで行くつもりでいたのだ。
(それまで、このまま堪えられるでしょうか・・・)
 疲労の激しい現状に、クリストフはくっと声を漏らした。
 空に舞ったボリスが何かを叫んでいるようだったが、もはや凄まじい風の音に掻き消され、何も聞こえない。これ程大きな風を操ったのは、クリストフ自身初めての試みだった。
 ごうごうと音を立て、風は全てを飲み込む勢いで吹き続ける。
(駄目だ・・・! もう持たない・・・!)
 懸命に気落ちを集中させようとするクリストフだったが、少しずつ威力を弱める風に、テントはゆっくりと降下しつつある。
 あともう少しで検問所だった。ぐらぐらと揺れならが、テントが地上目掛けて落下していく。
(もう少し!)
 最後の気力で、クリストフはもう一度風に威力を増加させた。
 もう一度高度を増したテントは、検問所の上を通り抜け、少し先の砂漠の砂の上にゆっくりと腰を降ろした。
 全身運動を行ったかのような疲労感に見舞われ、クリストフ自身もふわりと地面に降り立った。ぱらぱらと降下しては地面に転がっていくのは、吹き飛ばされた人達である。
「わああああ」
 しばらくすると、テントの中から蜘蛛の子を散らしたように数百人の子ども達が飛び出して来た。
「見て! 検問所の外だ! 僕ら、売られなくて済むよ!!」
 もう立っている気力も残っていないクリストフは、ふっと口元を緩ませて砂の上に座り込んだ。
「旦那!」
 ボリスが駆け寄ってくる。
「あんた、ほんとスゲエな! ありがとよ、俺たちを逃がしてくれて! ガキんちょどもの分も礼を言うよ!」 
 満面の笑みを浮かべて、ボリスはクリストフの手を握った。
 国外へと無事出たものの、子ども達が大変なのは恐らくこれからだ。まだリストアーニャに住む親兄弟と再会するには相当の苦労がいるだろう。
「アカネお姉ちゃんが約束を守ってくれたんだよ!! やっぱり、アカネお姉ちゃんはアルテミス様だったんだ!! じゃなきゃ、こんなことできないもん!!」
 テントから這い出てきた赤毛の少女が目を輝かせながら他の子ども達に話している。
 クリストフはその言葉を聞き逃さなかった。だるい身体を起こし、ゆっくりと少女に近付いていった。
「君はアカネさんを知っているんですね?」 
 驚いて警戒した様子の少女だったが、クリストフが朱音の知り合いと分かると、荷馬車でのことを話して聞かせてくれた。
「では、やはりアカネさんはこのテントにはいないんですね・・・」
 溜息をついたクリストフの姿を見て、少女は言った。
「アカネお姉ちゃんは、サンタシに連れて行かれると奴隷売りの人達が言っていたよ。サンタシの王様に会わせるって男の人達が話してた」
 少女達が散り散りになって去った後、クリストフはほっと息をついた。サンタシまで連れて行かれるとなると、すぐにどうのこうのされるという訳ではなさそうだ。しかし、朱音が目指していた旅の終着点に、囚われの身で向かうことになろうとは皮肉なものだった。
「ボリス・・・。もうリストアーニャから脱出できたのですから、後は好きに行きなさい。」
 かと言ってまだ安心はできない。この先、どのルートで朱音がサンタシへと連れて行かれるかはわからないが、まだま小国は治安がよくないところもたくさんあり、途中に賊が出て襲われるという可能性も無きにあらず。それに、無事にサンタシに到着できたにしろ、サンタシの国王ヴィクトルが朱音の姿を見たらどうなることか。憎き敵国の新国王とわかれば、どんな行動に出るかわからない。
 だからこそ、クリストフは急がねばならなかった。どうしてもサンタシに先回りしておく必要が出てきたのだ。
「ひでえな、旦那、忘れたのか? ほら、魔光石を譲り受けた相手を教えると言ったろ?」
 クリストフはがぴくりと顔を上げた。

「ヘロルド・ケルフェンシュタイナー閣下だ」
 
 ボリスの口から信じられない名前が飛び出し、はっとクリストフはボリスを見つめた。
「ボリス・・・、あなたは・・・」
 ボリスは可笑しそうに痩せた背を揺らしながら声を出して笑った。
「あっしはヘロルド閣下の忠臣なのさ。ヘロルド閣下の仰る通り、クロウ陛下は魔力をこれっぽっちもお持ちでないらしい。思ったより事が簡単に済んだもんだから拍子抜けだぜ」
 トカゲそっくりの吊り上った細い目で、ボリスは愉快そうに話した。
「アカネさんを陥れたんですね・・・」
 ボリスはあの夜、奴隷売りの男達に朱音を売り渡したのだ。
 軽蔑したような目でクリストフは見返す。
「ああ。あの夜、こうなることを予想して奴隷売りに情報を売りつけたのはあっしさ」
 ボリスは吐き捨てるように言った。 
「どう思われようが、構わねぇ。あの王がいなくなれば、ヘロルド閣下は晴れてゴーディアの新国王となり、あっしはその側近になれるって訳だ」
 ボリスには初めから怪しげな点はいくつもあった。しかし、クリストフはそれを見落としていた。
「宿でアザエルの死体を見た時にはぎょっとしたが、邪魔がいなくて助かったぜ。このところ、どうもあっしはついてるらしい!」
 今のクリストフにはもうその場から風を起こして逃げる程の体力も、ボリスに対抗する程の魔力も残っていなかった。そして、朱音を空から探し出す力さえも。
「ここであんたに邪魔をさせる訳にはいかねぇ。あんたを魔城へ連れて行く。無断で魔城に忍び込み、国王を攫った罪は重いぞ。きっとその命をもって償わざるを得ないだろう」
 ボリスは手の平をクリストフに向けた。
(まずい・・・!)