朱音は必死に考えを巡らせた。
(今の身体はクロウのものだから、ゴーディアの出身だよね・・・?! でもよく考えたら、わたし何も証明になるもの持って来てない・・・!)
男の言葉に黙り込んでしまった朱音の姿を見て、男はふんと鼻を鳴らした。
「悪く思うなよ、これも商売、金の為だ」
咄嗟に身を翻して逃げようとする朱音の腕をぐいと掴むと、朱音はいとも簡単に男の手に捕えられてしまった。こんなときに限って、ボリスは戻らない。ひょっとしたら、このおぞましい出来事を近くで震えながら見ているいるのかもしれない。嫌、見つかることを恐れて逃げ遂せたのかもしれなかった。
でも、もしボリスがこの光景を見ていたのなら、クリストフに伝えてくれることを今は願うしか無かった。
乱暴に投げ込まれた檻の中は暗く、既に何人もの子ども達が震え、啜り泣いていた。
「ふぇっ・・・、わたしは孤児なんかじゃないのに・・・、家族だっているのよ・・・」
暗がりの中で、朱音のすぐ傍の少女が懸命に訴えかけていた。
「ぼ、僕だって・・・! 父ちゃんの出稼ぎにくっついて来ただけなんだ!」
その声につられて、子ども達が一斉に声を上げて泣き始めた。荷馬車の周りでも、大人達の咽び泣く声が聞こえる。きっと、身分証を持たない子ども達の家族や親や親戚達だった。
朱音は気を緩めると、ついつい零れそうになる涙をぐっと堪えた。他の子ども達よりもいくつか年上だろう自分がしっかりしなくては、と思ったのだ。
朱音自身、今は家族と引き離される子ども達の気持ちが痛いほどよくわかった。レイシアへ来て、天涯孤独の身を知った朱音にとって、ここにいる子ども達はまるで自分を見ているようであった。
やがて動き始めた荷馬車に揺られながら、悲しみに暮れる子ども達に朱音は囁いた。
「大丈夫、心配しないで。 きっと家族の元に帰れるよ。 きっと皆を逃がしてあげるから・・・」
すっかり帰りが遅くなってしまったクリストフは、早足で朱音の待つ宿場へと道を急いでいた。
しかし、街外れまでやって来ると、おかしな空気に気が付く。
深夜だというのに、屋外でがっくりと項垂れた者や啜り泣く者がちらほらと見受けられたからだ。
妙な胸騒ぎがして、クリストフは駆け出した。
宿泊している宿に着くと、入口の辺りで、宿を営んでいる老夫婦が手をとり合ってしゃがみ込んでいた。
「何かあったのですか?」
ただ事ではない雰囲気に、クリストフは老夫婦に訊ねた。
「ああ・・・、ついさっき奴隷売りの奴らがやって来てね、身分証を持たないここらの子ども達を皆、掻っ攫ってっちまったんだ・・・」
嫌な予感がした。
しかし、慌てて駆けつけた宿泊部屋の前で、クリストフは嫌な予感が的中してしまったことを知る。
部屋の扉は既に蹴破られており、部屋の中には食べかけのパンと肉の骨が机の上に置いてあるだけで、朱音とボリスの姿はどこにも見当たらなかった。
「一足遅かったですか・・・。しかし、リストアーニャの治安がここまで落ち込んでいるとは・・・」
着ているシャツの衿元のボタンを緩めながら、クリストフは溜息を零した。
その瞬間、クリストフはベッドの下から僅かに見える灰色のローブに気が付く。
ゆっくりと屈んでベッドの下を覗き込んでみると、アザエルがそこに横たわっていた。
「ふ・・・、アカネさん、貴女という人は・・・。自分がどんな窮地に立たされていても、人助けを優先してしまう・・・」
苦笑を漏らしながら、クリストフは呟いた。
いつの間に戻って来ていたのか、部屋の窓の外からにクイックルがちょこんと顔を覗かせていた。
クリストフは窓を開けて白鳩を部屋へと招き入れた。
「さて、君にまた頼みごとをしなくては・・・。君の名付け親が一体どこへ連れて行かれたのかを探してきて欲しいんです」
クイックルはバサバサと翼を広げ、クリストフに合図を送った。
リガルトナッツの入った袋からいくつかナッツを取り出すと、クリストフは白鳩にそれを食べさせてやる。美味しそうに平らげたクイックルは、ぴょんとクリストフの手から窓枠へと飛び降りると、一度だけクリストフを振り返り、さっと闇夜の空へと飛び去った。
だんだん小さくなる真っ白いクイックルの姿を見つめながら、クリストフは心の中でこう呟いた。
(でも、気をつけて下さい。君のように珍しい羽色の鳩は、リストアーニャではどこへ売り飛ばされるかわかりませんからね・・・)
リストアーニャの夜は更けていく。
商売の国として栄える反面、暗い一面を残して。
幼い黒髪の少年が広い城の中を駆けている。
小さな白い手にいっぱいの黄色い花。少年が走る風でひらひらと舞っていた。
「母上!!」
少年が飛び込んだ広間はがらんどうで、人の気配が無い。
「母上・・・?」
誰も居ない広間の奥からひそひそと話し声が聞こえる。
クロウは恐る恐る声のする方へと近付いて行った。
隣の部屋へと通じる扉が僅かに開き、明かりが漏れている。手に黄色い花を持ったまま、クロウは大きな黒い瞳でじっと中の様子を覗いた。
「もう我慢できません・・・! 陛下はわたくしにこれ以上苦しめと仰るのですか・・・?」
アプリコットのふわりとカールした髪を美しくなびかせ、薄いピンクのドレスの可憐な女性が、何か懸命に訴えかけていた。
「あの人を遠ざけてください。わたくしを正妃として迎えたときに、わたくしを愛するよう努力すると仰ったじゃない」
女性はこちらには背を向けていて、その表情はよくはわからない。けれど、ひどく取り乱しているようであった。
「ベリアル、君にはすまないことをした。しかし、あいつを遠ざけることはできない、分かって欲しい・・・」
低く、そしてひどく懐かしい声。大人の男の声は、ベリアルと呼ばれた女性のすぐ後ろから聞こえてきた。
「なぜです!? わたしが陛下の心を得ることはできないのですか? こんなにも陛下を愛しているのに・・・!」
ベリアルの肩は震えていた。泣いているようだった。
「すまない・・・」
ベリアルの肩を優しく抱く男の手は透けるように白い。男のゆったりと結われた美しく長い漆黒の髪がさらりと、黒いサテンの服の上を落ちていった。
「陛下は、いつだって一人の女性しか見ておられないのよ・・・。そしてあの人は、いつでも陛下の中に住み続ける・・・。なんて残酷な人なの・・・」
ふと見えたベリアルの横顔はひどく涙で濡れていた。しかし、見る男全てを虜にしてしまう程の可憐さを持ち合わせていた。
「あの子を・・・、あの人の子であるクロウを息子だと思ったことは一度もありません。あの子を見ていると妬ましくて仕方が無いのです・・・! わたくしも自分の子を産みたかった・・・!」
黒曜石の瞳を見開き、クロウは持っていた黄色い花をパサリと床に落とした。
ベリアルはクロウの母だった。
「あまり思い詰めるな、また発作が起きてしまう・・・」
ベリアルを支えるように抱く男は、幼いクロウと瓜二つの、恐ろしい程美しい顔をしている。
「どうしてあの人ばかりが何もかも手に入れてしまうのです・・・! わたくしが陛下の妻なのに・・・、あの人には陛下の愛も、その愛の証さえも・・・」
クロウはひどく恐ろしい事実を知ってしまったのだ。
愛した母ベリアルは、実の母ではなかったということを。そして・・・、自らが母に愛されていないばかりか、疎ましい存在だったということを。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。夢を見ていた。
それは、嵐の晩に見たものと同じ、幼いクロウの記憶。とても切なく悲しい記憶。
この間の嵐の晩のように、魔力が使えればと思い、一晩中意識を集中させようと努力し続けた朱音だったが、あのときの力はあれっきりで、いつの間にやら疲れて眠ってしまったのだ。
「ん・・・」
檻を背にもたれるような形で眠った為、身体のあちこちがぎしぎしと痛む。
はっと息をのむ声が聞こえ、朱音は眠い目をこすりながらゆっくりと目を開けた。
「お姉ちゃん、女神様・・・?」
まじまじと朱音を囲むようにして覗き込む子ども達に目を見張り、朱音は寝ぼけ顔で周囲を見回した。荷馬車の檻の上には巨大な布のようなものが被されており、布の隙間からは朝の日差しが差し込んで僅かに明るい。馬車はどこかに止められているようであった。
「え?」
きょとんとして聞き返すと、子ども達は朱音の服をぎゅうぎゅうと摘まんでは引っ張り始めた。
「ねえっ、お姉ちゃん女神様でしょ? だって、神話の本に出てくるアルテミス様にそっくりだもん!」
そばかすと赤毛の少女が目を輝かせた。
「へ? アルテミス?」
朱音は起き抜けにほとんど理解できない頭で、思わず小首を傾げた。
「アルテミス様を知らないの? 月の女神様だよ」
そばかすの少女はひどく驚いている。
“月の女神”と聞いて、朱音はくすりと笑った。
(ああ・・・、このクロウの姿を見てそう思ったんだね)
子ども達がその、月の女神アルテミスと勘違いするのも無理は無かった。クロウの父は魔王ルシファーで、天上界を追放されるまでは、神に最も近い存在である天上人、ルシフェルだった。即ち、レイシアの神話に登場する女神の姿絵が、天上人ルシフェルをモデルとしている可能性は大いに高く、その血を色濃く受け継ぐクロウの姿が女神に似ているという話も理解できる話だ。
「わたしはそんな立派な女神様なんかじゃないよ、朱音って言うの」
零れ落ちそうな程の大きな瞳で、そばかすの少女がじっと朱音を見返してきた。
「アカネお姉ちゃん・・・? わたし、カロル・・・」
「よろしくね、カロル」
にこりと微笑むと、周りの子ども達も僕もわたしもと名前を名乗り出した。
「ぼく、アントン!」
「ジャンだよ!」
「わたしフランカ」
朱音は子ども達に満面の笑みで答えた。
「なんだなんだ、騒がしいな・・!」
檻の外から図太い男の声が響く。びくりと身体を強張らせると、子ども達は朱音の傍で皆縮こまった。
途端、ばっと捲られた布。薄暗さで目が馴れていた朱音は、眩しさで目が眩み目を瞑った。
「こりゃ驚いた・・・。見てみろ、思わぬお宝が紛れ込んでたぜ」
その声は昨晩の大男の一人のものだった。
「昨日は暗くてよく見てなかったが、これはラッキーだぜ。奴隷として売りさばくにゃ勿体無い」
やっと見え始めた朱音の視界に、檻越しに眼帯をした大男と禿げ上がった大男の二人が、自分を驚きの目で観察している様子が入ってくる。男達の話していることが、自分のことだと気付き、朱音はひどい嫌悪感を覚えた。
「アカネお姉ちゃん・・・、わたし達、一体どうなるの・・・?」
今にも泣き出しそうな顔で、カロルがぎゅうと朱音の腕にしがみ付いてきた。
「大丈夫、きっとわたしが何とかするから、心配しないで」
魔力のこれっぽっちも無い今の朱音に何かできる筈は無かったが、子ども達を安心させる為にも、自分を安心させる為にもそう呟いた。子ども達は、月の女神アルテミスによく似た朱音の言ったことを信じ切っているようだった。
太陽が真上に昇る頃、朱音と子ども達の入れられた檻は荷馬車に揺られて、どこか別の場所へと移動を始めたようであった。
『アカネ嬢・・・、アカネ嬢・・・!』
揺れた馬車の中ゴトゴトというやかましい音に紛れて、どこからともなく囁くような呼び声が聞こえてきた。
「?」
一瞬空耳かと思い、朱音は再びカロル達とくっついて目を閉じた。昨晩は緊張と恐怖のせいか眠れなかっただろう子ども達は、疲労でうとうとと居眠りうを始めていた。
『アカネ嬢ったら・・・!』
きょろきょろと檻の中を見回すと、上に掛けられた布の隙間から、ぺったりとした髪の痩せた男が顔を覗かせている。
「ボリス!?」
驚いて朱音は馬車の後方へと四つん這いで慌てて擦り寄った。
「ボリス、あなた、逃げたんじゃなかったの?」
しっと人差し指を唇の前に立て、何かに怯えているような仕草で、ボリスは声を落として言った。
「アカネ嬢が攫われた後、旦那がまだ帰ってくる気配も無かったんで、こっそり馬車の後をつけて来たんす。あっしも奴らに見つかったらえれえことになりますんで、様子を見計らってたんすよ・・・」
とっくに逃げてしまったと思っていたボリスに、朱音は心の中で疑ったことを謝った。
「そうだったの・・・、わたし達、どうなると思う?」
子どもの頃に同じことを経験済みのボリスが一番、この馬車の行き先をよく知っている筈だった。
「たぶん・・・、競り市(いち)へ向かってんだろうなぁ・・・。明後日はまた競り市の開催日だし、集められた子どもはだいたいそこで競売に掛けられる。」
まるで物でも扱うような話に、朱音は吐き気さえ覚えた。子どもを売り買いするなんて、この国はどうかしている、はっきりとそう感じた。
「ねえ、クリストフさんにその競り市の場所を知らせることってできない?」
ボリスはこくりと頷いた。
「あっしも、それが一番いいと思ってたんだ。けど、どうもそう上手くはいかねぇみたいだ、アカネ嬢・・・」
どうして、と首を傾げた朱音に、ボリスが衝撃的な事実を述べた。
「さっき奴らの話をこっそり聞いたんだ・・・。子どもらを競り市で降ろした後、アカネ嬢だけはどっか別の場所へ連れてかれるみたいだ」
眠っている子ども達はまだボリスの存在に気付いてはいないようで、静かに眠りについている。
「それ、どういうこと・・・?」
きまりが悪そうに、ボリスはぼしょぼしょと口を窄めて答えた。
「アカネ嬢があんまり綺麗すぎたもんだから、なんでも、奴隷として競売にはかけないみてぇなことを言っててよ・・・」
朱音は咄嗟に寝ている子ども達を振り返った。
朱音と自分達が別の場所へと連れて行かれることを知ったら、子ども達はひどく動揺するに違いない。それに、彼らは朱音が本当に助けてくれると信じ切っていた。それなのに、その約束を破ることになるかもしれないと思うと、朱音は口が裂けても自分からそのことを話す気にはなれない。
「ボリス、いいからその競り市ってとこの場所をクリストフさんに伝えてきて・・・!」
ボリスは戸惑ったように返した。
「だってよ・・・、そんなことしたら、アカネ嬢の居場所がわからなくな・・・」
「いいから! わたしは自力で何とかするから、先にあの子達を逃がしてあげて欲しいの。ね、あなたも同じ目に遭ったなら助けてあげたいと思うでしょう?」
懸命な朱音の説得に、ボリスはうんと言わざるを得なかったらしい。しぶしぶ頷くと、周囲を見計らって、ボリスは荷馬車の上からそっと飛び降り、離れていった。
(クリストフさんなら、きっとわかってくれるよね・・・!)
ぎゅっと手の平を握り締めると、荷馬車の上から檻越しに僅かに見える外の景色を見つめた。
この時、馬車のすぐ脇を、二人の旅人が通り過ぎたことに朱音は全く気がつかなかった。
「殿下、もう限界ですよ・・・。これだけ探してもそのロジャーという男は見つからないんです。きっと、既に違う国へ行ってしまったんでしょう」
ユリウスはこの国に朱音がいると信じて疑わないフェルデンの意向で、リストアーニャで何日も足止めを食っていることに焦りを感じ始めていた。
「いや、まだあの男はこの国にいる。なぜだかわからないが、アカネが近くに居ると感じるんだ」
なんとしても朱音を取り戻したいと願うフェルデンの気持ちは分からないでも無かったが、これ以上の旅の遅れはもう許されない。今は、一刻も早くサンタシへと戻り、国王にこれまでの経緯と知りえた情報を全て話す必要があった。