足には未だ包帯が巻かれたままだが、今ではすっかり塞がって、歩くことに不便を感じることはなくなった。
この城に来てからというもの、朱音はこうして以前から夢に描いていたようなドレスを着させて貰い、朱音の身の周りを世話してくれる侍女のエメと、この部屋で一日の大半を過ごしていた。
初めは怪我のせいもあってそんな暮らしも苦痛とは思わなかったが、城の中の者にあまり朱音の姿を晒すことを良しとしなかったヴィクトル王の命により、部屋の外へ出ることさえも厳しい制限を加えられ、何もしないで部屋に篭り続けなければいけない状況が続いていた。
朱音はいい加減そんな状況にうんざりし始めていた。
部屋のノックの音が聞こえ、朱音の護衛を任された術師のロランが顔を出す。
「ロラン!!」
朱音が退屈から連れ出してくれる救世主を見つけたとばかりにロランの元に駆け寄る。
「・・・そんな目で駆け寄られても僕は何もしないからな」
鬱陶しそうにしっしっと払いのける真似をするロランは可愛らしい顔に似合わずのなかなかの毒舌少年だった。
「ロラン、わたし、いつ元の世界に戻れる? ねえねえ、いつ??」
自分よりも少し背の低い少年のローブの裾を掴むと、朱音はくいくいと引っ張った。
「だから何度も言ってるだろう!? お前はゴーディアに狙われているんだ。この城に張られた結界内から外に出た途端、お前に掛けられた魔術を察知して、すぐさま敵の追手に連れ去られるのが落ちだ。せめて魔術の効力が切れるまではここでじっとしていろ」
まだ声変わりのしていないロランの声は、朱音の弟、真咲のことを思い出させてくれる。
「じゃあ、いつになったらその魔力の効力ってのがなくなるの? こんなところにずっと閉じ込められて、わたし頭がおかしくなりそうだよ!」
ロランはぷいと朱音に背を向けた
「お前は本当に頭の悪い女だな。そんなこと僕にわかる筈ないだろ! だいたい、僕がその掛けられた魔術を解こうとしたことも既にフェルデン殿下から聞いているだろう!」
ロランは国王お気に入りの術師で、自身もその能力に自信を持っていた。それなのに、朱音にかけられた魔術が解けないということでひどく自尊心が傷ついているようであった。
「とにかく、その魔術の効力が切れるのはかけた本人にしかわからない。ぼくから言えるのは、それを掛けた奴ってのが、相当の魔力の持ち主だってことくらいだ」
ロランの服を引っ張っていた朱音の手がスルリと解けるのがわかった。エメは心配そうな表情のまま、カップにティーを注いでいる。
「だって・・、ロランもフェルデンもあんまり来てくれないじゃない・・・」
しゅんと俯く朱音は年下の筈のロランよりも不思議といくらか幼く見えた。
「お前! 殿下のことを呼び捨てに・・・!」
真っ青になって叫ぶ。
「フェルデンがそう呼べって」
ぶつぶつと膨れっ面で朱音は呟いた。
「ロラン様、アカネ様の言っていることは本当のことです。フェルデン殿下は確かにアカネ様にそのように呼ぶようにと日々仰っています」
エメが困ったような笑いを浮かべながら、ポットをテーブルの上に静かに置いた。
「さあ、ハーブティーが入りましたよ。ロラン様もどうぞお掛けになってくださいな。サンタシが誇るリリーの葉とチチルの実を燻して作ったハーブです。ストレスを緩和してくれる効果もあるんですよ」
本当にこの娘の気配りにはいつもながら感心してしまう。
ロランも渋々エメが促す椅子に腰掛ける。
「護衛を任された僕はまだしも、国王直属の騎士団の指揮を任されるフェルデン殿下がお前のような卑しい者にこれ程お気を掛けてくださるなど、この上なく幸せなことだと思えよ? 今は国も緊迫した状態なんだ。お忙しい身であられることに変わりはない」
カップを手にとると、ロランはふんっと鼻を鳴らして口をつける。
「フェルデンって騎士団の指揮までしてるの!?」
あの青年騎士がヴィクトル王の実の弟であり、王族であるということは知っていたが、この事実は朱音にとって驚くべき、そして実に納得のいく事実であった。
(そっか・・・、だからいつもあんな軍人さんの服を着てるのか)
朱音も遅れて席に着くと、エメの入れたハーブティーの入ったカップを手にとった。
「お前、そんなことも知らなかったのか? ほんと頭悪いよな」
呆れ顔で毒を吐き続けるロランに、朱音は不機嫌そうに視線を送る。
「煩いなあ。だって誰にも教えて貰ってないんだし、知らなくたって仕方ないじゃん」
「知らなくたって予想位できるだろうが。聞けばエメだって喜んで教えてくれただろうさ」
毎度こんな調子でロランと口喧嘩をするのが日々の日課になりつつある。エメは気にもしない様子でハイペースでなくなってゆく二人のティーカップに小まめにティーを注ぎ足していた。いつもの如く、これが収まるのは、一刻程口喧嘩し続けてすっかり二人が疲れてしまった後である。
しかし、退屈で仕方のない今の暮らしの中、こうしてロランと思う存分口喧嘩をすることのできる時間は、朱音にとって幸せな一時と言えないこともない。
もっとも、ロラン自身はいい迷惑と思っているかもしれないが。
「まあ、お前は心配するな。いずれ掛けられた魔術が解けたら、才ある僕がお前をアースへと無事に送り返してやる」
素っ気無くそう言い残すと、ロランはぷいと振り向きもせず朱音の部屋を退出して行った。
「ロラン・・・」
口を開いたまま、朱音はロランの出て行った扉をじっと見つめる。
「アカネ様、ロラン様は言葉は悪いですが、本当にあなたをお守りしようと必死になっておられるのですよ」
エメはにっこりと笑い掛けると、手際良くティーのセットを片付け始めた。
「うん・・・、わかってる・・・」
そう言って、朱音は見慣れた美しい絵画に目をやった。
(そう言えば、この絵、どこのお城だろう・・・)
ある朝、とんでもないことが起きた。
「******」
昨晩まで確かに理解できたはずのエメの言葉が、聞いたことのない響きとなって、突然理解できなくなったのである。
「な、なに? エメ??」
何度聞き返しても返ってくる言葉は全くもって理解できず、朱音はただ狼狽した。エメの方も朱音の言っていることがわからない様子で、その切羽詰った状況に気付いて慌てて部屋を飛び出していった。
(な、なんで??)
混乱して椅子にへたり込んだ朱音は、テーブルの上で頭を抱え込んだ。
思い起こせば、アザエルに攫われたあの夜にどうして違和感もなく言葉が通じることに異変を感じなかったのだろう。これはひょっとすると、ロランの言うように、自分は本当に頭が良くないのかもしれないと思い始めていた。
「*****!」
勢いよく開かれたドアから現れたのは、息を荒げたフェルデンと、そしてそのすぐ後ろになぜかロランの姿も。
「*****? *****・・・」
心配そうに駆け寄るフェルデンが懸命に何かを話しかけてきてくれているのはわかったのだが、今の朱音には彼の言葉はさっぱりわからない。
「わかんない、フェルデン、あなたの言葉がわかんないよ」
昨夜、部屋を訪ねてきてくれたフェルデンは、いつものごとく朱音の元いた世界について聞きたがり、車や飛行機などの話をしたばかりだった。それに、家族を思い出してはホームシックに陥いる朱音の髪をいつも優しく撫でてくれたのだった。
そんな彼の言葉が理解できない。急にこの世界に一人ぼっちで置き去りにされてしまったような不安と孤独を感じ、朱音はぼろぼろと涙を零し始めた。
「******」
安心させようと、フェルデンが朱音の髪を撫でる。
涙で滲む視界の中で、フェルデンのブーツが泥でひどく汚れていること、そしていつも部屋にやって来るときには必ず置いてきてくれる剣を今日は見につけたままにしていることに気付く。おそらく、訓練を中断してここに駆けつけてくれたのだろう。
「*****、******・・・」
入り口の辺りでその様子を見守っていたロランが何やらフェルデンに話をし始めた。
驚いた様子でフェルデンが立ち上がりロランを振り向く。
「****!?」
「***。********」
二人のやり取りは真剣そのものであった。
「フェルデン殿下、アカネが急に言葉を解さなくなったのは、おそらく、彼女にかけられていた魔術の効力が切れたからでしょう・・・」
「それは本当か!?」
「はい。実際、今アカネの身から魔術の気配は消え去っています」
そんなやり取りがあったことなど知りもしない朱音は、とにかくどうして自分がこんな状況に陥ってしまったのか、必死に考えていた。
「ロラン、君の術でなんとかできないのか?」
いつも冷静で十七という若さで騎士団の指揮官という任に就き、たった二年で数々の功績を挙げてきたこの青年が、この出所もわからないただの少女を前にすると、なぜか取り乱していることに、ロラン自身少々驚いていた。
「できないことはありません。しかし、僕の専門は結界術です。以前かけられていたような術をアカネに施すとなると、相当の時間を要するかと・・・」
戸惑いを隠せず、フェルデンは椅子の上で小さくなっている朱音を見やった。
「これ以上時間を無駄にする訳にはいかない。アカネは元の世界に戻りたがっている。そのチャンスを奪いたくはない・・・」
ロランも小さく頷いた。
時空の扉を作り出すことのできる唯一の場所、セレネの森の鏡の洞窟は百年に一度地殻変動によって出現する未知なる力を持つ聖域で、その力を発揮することができるのは日数にして六十日の間のみ。そしてこの洞窟が出現してから、もう既に五十日が経過していた。
「この際言葉などどうでもいい。この機会を逃せば、アカネはアースに戻る術を失う」
そう言ったフェルデンは、どんなことをしても朱音を元の世界に返してやりたい気持ちでいっぱいだった。
出会った当初は、純真で飾らないこの少女に興味を抱き、幼くして亡くした妹の面影を抱いてはこのままここにいればいいのに、などと不謹慎なことを考えることも度々あったフェルデンだった。
しかし、毎晩家族や元の世界を懐かしんでは帰りたいと泣く朱音の姿を見ているうちに、自分がどれだけ身勝手な願いを抱いていたのかを思い知り、そして深く後悔したのだった。純真で可憐なこの少女の本当の幸せとは、元いた世界で家族と共に暮らすことなのだから、自分はどんなことをしてもその幸せを守りたいと強く心に決めたのである。
「言葉の弊害は厄介ですが、この際送り届けてしまえば何の問題もありません。
術の切れた今のアカネならば、敵に気配を察知される心配もないでしょう」
ロランはいつか自分が約束した、無事アースに送り届けるという言葉を思い出していた。
「鏡の洞窟が力を失うまで既に十日を切りました。あまり早く送り返してしまうと、再び敵がアカネを攫ってきてしまうことも考えられます」
フェルデンはこくりと頷くと、意を決して言った。
「よし、ぎりぎりまで粘るぞ。そして期限ぎりぎりにアカネをアースへと送り返す!」
突然大きな声を出したフェルデンに驚いて、朱音がビクリと身体を震わせて、椅子からずるりと滑り落ちた。
「アカネ!」
慌ててフェルデンが床にペタリと尻餅をついたアカネに駆け寄ると、起き上がるのに手を貸す。
「フェルデン殿下、しかしながら、時空の扉を開くには僕の力をもってしても丸一日はかかってしまいます。それに、先日穢された聖域を浄化する作業もしなくてはなりません」
ロランはちらりと涙目の少女を見ると、すぐさまフェルデンへと視線を戻した。
「どのくらいかかる?」
「穢れの具合によります」
アカネを起こし終えると、フェルデンはロランを見つめた。
「よし、君に全て任せる。陛下にはおれから話して許可を貰っておこう。準備が整い次第直ぐに出立を。敵がまだ潜んでかもしれない。騎馬隊の第三小隊を護衛につけよう」
ロランはフェルデンに礼の形をとると、
「御意に」
と応えるとすぐさま早足で部屋を後にした。
何やら真剣な面持ちでフェルデンとロランがやり取りをした後、突然に早足でロランが部屋から出て行ってしまったことに不安の表情を浮かべている朱音をフェルデンはぐいと引き寄せた。
驚きで朱音は目を見開き、耳まで真っ赤に染める。
二人きりになった部屋の中で、何が起こったのか、朱音はフェルデンの腕の中に抱き寄せられる形で納まっていた。フェルデンの引き締まった長身の身体は、逞しくとても安心できた。服の布ごしに聞こえてくるフェルデンの心臓の音が、朱音の耳にしっかりと響いてきた。
「*******・・・」
相変わらず言葉の意味はわからなかったが、優しい声は朱音のパニックを起こした心に深く沁みこんでくる。
「大丈夫、きっと帰れるから・・・」
フェルデンは、愛おしいと思えた少女を抱き締めずにはいられなかった。
たとえ、言葉が通じなくとも。
一ヶ月以上もの間、城の部屋の一室に閉じ込められるような形で過ごした朱音だったが、この日は朝から様子がおかしかった。
いつもなら煌びやかなドレスをエメに半ば強制的に着せられるのだが、今朝は動きやすいスリットの入った上着にぴたりとしたズボンを着せられ、何度もエメは目を潤ませながらしきりに何かを訴えかけてきていた。
そうするうちに、フェルデンの手により慣れない馬に乗せられてやって来た先は、あの見覚えのある山。いや、森である。確か、以前ヴィクトル王がセレネの森と話していた。
それに今日初めて城の外に出たことで驚くべきことがわかった。
部屋にあったあの絵画の中の城は、朱音自身がいた城だったのだ。
言葉が解らない為、フェルデンに城の名前を訊くことは適わなかったが、城の周囲に広がる広大な野や美しい湖、そして崖下に広がる森は絵のものとそっくりであった。
(わたし、あんなに綺麗なお城で暮らしてたんだ・・・)
崖下に広がる森が今朱音達のいるセレネの森であった。すぐ裏手にあるものだとばかり思っていた森だったが、切り立った崖を降りることはさすがに難しく、ぐるりと馬で回って森へ降りた頃には、すっかり日が落ちていた。
「******」
フェルデンが朱音に何やら囁くと、懐かしいいつしかの洞窟が目に入ってきた。
「あっ・・・」
驚いてフェルデンを振り返ると、ブラウンの瞳がふわりと優しく綻んだ。
フェルデンは、朱音を元の世界に返してくれようとしている。今思えば今朝のエメの必死な訴えは、別れの言葉を朱音に伝えていたのかもしれなかった。
「*****!」
フェルデンと朱音の乗る馬に気付いた見張りの兵士が何やら叫んで敬礼をとると、洞窟の周りで護衛をしていた他の兵士達も慌てて敬礼をとった。
フェルデンは自分が先に馬を降りると、朱音が降りるのを手伝う。朱音は、すっかりこの青年の優しさに甘えきってしまっている自分を恥じた。
一人の兵士の案内で、二人は洞窟の中へと足を踏み入れた。
朱音は息を呑んだ。
一ヶ月前、アザエルに連れ去られたあの日に見た、あの金色の光の穴が、洞窟の奥にぽっかりと口を開いている。穴のすぐ近くには、しばらく見なかったロランが呪文のようなものをぶつぶつと唱えながら、穴に向かい合っていた。
ロランの顔には疲労の色が濃く見られる。おそらく、ここ数日徹夜でこの作業にあたってくれていたのだろう。いつかした朱音との約束の為に・・・。
朱音は胸が熱くなるのを感じた。
あれだけ憎まれ口を叩いていても、ロランは朱音を見捨てたりはしなかった。
そしてフェルデンも・・・。
今夜は雲が多く、二つの月は見えない。
「ロラン・・・」
朱音はロランのすぐ近くまで寄ると、小さな声で『ありがとう』と言った。
この言葉は、エメから教わった、数少ないこちらの世界の言葉だった。ロランの霞がかったブラウンの瞳が驚きで見開かれている。その頬にちゅっと朱音は軽く口づけた。みるみる赤く染まる。思い返せば、こんなに豊かな表情を見せたロランは今が初めてかもしれない。
金色の穴は既に安定していて、今なら悠々と朱音が入っていけるだろう。
(帰れるんだ・・・)