「アカネ?」
ふいにフェルデンの口から自分の名が飛び出した途端、ほんのりと桜色の頬を染めた朱音が慌ててむくりと身体を起こした。
長身のフェルデンは白を基調とした軍事服のような服を身につけ、詰襟の際には金の刺繍が美しく施されている。併せ襟のマントさえも白く、その下から僅かに覗く質の良い皮ブーツだけが唯一の茶だ。
これだけでも、この青年が大層身分の高い者だということは朱音にもわかった。
「フェ、フェルデンさん。た、助けていただいて本当にありがとうございました」
カチコチになったままぎこちなく礼の言葉を口にする朱音の姿を微笑ましく思ったのか、フェルデンは口元をふっと緩めると、穏やかな口調で言った。
「畏まらなくていい。おれのことはフェルデンと呼んでくれ」
フェルデンはゆっくりと朱音の前で腰を落とした。
いきなりすぐ目の前までフェルデンの美しい顔が降りてくると、美形に免疫のない朱音は耳まで真っ赤にしてふっと目線を逸らせた。
「さて、話してくれないか。君が昨晩どうしてあの森であの魔族の男と一緒にいたのかを・・・」
視線をゆっくりとフェルデンへと戻すと、先程までと打って変わって、彼の目は真剣味を帯びていた。
「魔族・・・?」
朱音は妙な言葉に違和感を感じ、思わず口に出してしまっていた。
「まさか、あの男が魔族だと知らずにいたのか? だが、君はどうやらある種の魔術を掛けられているらしい。一体、あの森で何があった? 奴に何をされそうになったんだ?」
魔族や魔力という非現実的な言葉の勃発に、朱音は震える声でベッドの白いカバーを強く握り締めた。
「聞きたいのはこっちです・・・! 一体ここはどこなんですか? 昨日から魔王だとか魔族だとか魔術だとか、そう、それに二つの月とか・・・。意味が解らない! わたしは眠っている間に無理矢理あの人に連れて来られただけなのに・・・!」
フェルデンのブラウンの瞳が僅かに揺れるのがわかった。
「君はもしかして、アースからやって来たのか!? ・・・だとしたらなぜだ、なぜ只の人間である君を連れて来る必要があるんだ!」
フェルデンはまるで自分に問い質すかのように声を荒げた。
ビクリと身体を震わせる朱音の姿を見て、青年はすまない、と声を落とした。
「ここはレイシアという君のいた世界“アース”とはまた別の世界だ。つまり、君はあの男の手によって、異界の地に連れて来られたということになる」
フェルデンの言葉の意味を理解できずに、朱音は呆然とフェルデンの顔を見つめる。
「レイシアには二つの大国と島国を主とする小国が存在する。そしてこの緑豊かな国サンタシは二つの大国のうちのひとつだ」
フェルデンはすっと立ち上がると、塗りの素晴らしい棚の中から、使い古した本を一冊取り出した。
「これはこのレイシアの世界地図だ。ここがサンタシ。そして向かいの大陸に広がる大国が我らの宿敵であり魔族の住まう国、ゴーディアだ」
本の見開きのページに描かれている見たこともない不思議な地図をフェルデンは朱音に見せた。
呆然としながら朱音はフェルデンからひったくるようにその本を手元に引き寄せる。
少し日に焼けて黄ばんだ地図は、確かに朱音が普段目にしていた日本やアメリカなどの国がかかれているものとは似ても似つかない。
巨大な大陸が二つ、海を隔てて、羽を広げたような形をしている。右側に位置する大陸にはゴーディアと、左側に位置する大陸にはサンタシと記されている。左側の大陸は右側の大陸と比べると少し大きく、北の辺りは雪が積もっている様子が描かれている。おそらく、南の方は南国のような気候となっているのだろう。大陸から千切れたような小さな島の絵が無数にある。対してサンタシは大陸の半分以上を占め、その下にいくつもの小国が連なっていた。
「う・・・そ」
信じられないことを聞かされた朱音は、愕然としてその地図をポサリとベッドの上に落とした。
「気持ちはわかる。おれ達の予想だが、おそらくは君は、ゴーディアの王の命(めい)でアースの地から贄(にえ)として連れて来られたのだろう」
「に、贄・・・?」
フェルデンの口から出たおぞましい言葉は、朱音を震え上がらせるには十分であった。
「だが、なぜわざわざアースの地から連れて来なければならなかったのか、何を目的にしているのかはわからない・・・」
ベッドに落ちた本を拾い上げながら、フェルデンは溜め息を溢した。
「やだ・・・、わたし一体どうなるの!?」
ガタガタと真っ青になりながら震える朱音を哀れみの目で見つめると、フェルデンはそっと朱音の髪を優しく撫でた。
「怖がらせて悪かったな。でも、大丈夫。おれ達が君を絶対守ってやる」
フェルデンの手は逞しく、それで髪を撫でる手はとても優しかった。
「わたし、元の世界にもどれるよね・・・?」
フェルデンの手がピタリと静止する。
「正直なところ、おれには分からない・・。でも、陛下直属の術師なら何か分かるかもしれない」
動揺はしているものの、僅かな希望を抱いているか朱音の表情を、フェルデンは少し淋しそうな微笑みで見つめた。
「陛下?」
「サンタシの王、ヴィクトル・フォン・ヴォルティーユ陛下だ」
朱音は不思議そうに首を傾げた。
「ヴォルティーユ?」
フェルデンはくすりと笑みを溢した。
「そう、ヴィクトル陛下はおれの兄だ」
「・・・えええええええええええええええええええええええええええ!?」
「もう一ついかがですか?」
そばかすの侍女、エメがクッキーのようなお菓子を差し出しながら、朱音に微笑みかけた。
「うん、ありがと」
お菓子に手を伸ばしながら、朱音は一週間程前に初めてサンタシの王ヴィクトルに対面したときのことを思い出していた。
「アカネと申したか、面をあげよ」
フェルデンよりも低音であるヴィクトル王の声に、朱音がおそるおそる顔を上げた。
「お初にお目にかかります、ヴィクトル陛下」
フェルデンに教えられた通りの言葉をなんとか言い終えると、高い壇上の椅子に腰掛けるヴィクトル王を見上げた。
そこにあった王の姿は、予想とは裏腹にまだ二十代後半の若い男のものであった。
幾枚もの木目細やかな金の刺繍の入った布を併せた、艶やかな衣装に身を包み、フェルデンと同様の金の髪は、肩のあたりで切りそろえられており、緩やかにウェーブがかっている。賢王という名に相応しく、少しばかり吊り上った目はまるで隙を感じさせなかった。
「フェルデンからは話は聞いている。大変な目に遭ったな。アースから参ったと?」
張り詰めた空気を断ち切るように、朱音はしっかりとした口調ではいと答えた。
「聞くところによると、そなたには微弱な魔術をかけられているということだ。しばらくは追っ手や刺客に狙われることを覚悟しておかねばなるまい。術の効力が切れるまでは外出を控え、術師の施した結界の中に逃れておくのが懸命であろう」
ヴィクトル王はすっかり恐縮して縮んでいる朱音を見据えたまま言葉を連ねた。
「よって、そなたには術師であるロランを護衛としてつけよう」
ヴィクトル王のすぐ近くに控えていた長い灰色のローブを身に着けた少年が、ヴィクトル王の目配せで朱音の前に歩み出た。
年は十二、三歳という程の頃合で、朱音よりは二つか三つ程年下と思われる。霞みがかった茶色い髪と眼がとても印象的な少年だ。
「陛下、賢明なご配慮、ありがとうございます」
朱音の隣で膝をつくフェルデンが頭を深く下げて礼をとった。それを見て慌てて朱音も礼をとる。
「礼には及ばぬ。あの愚王ルシファーのすることだ。何かただやらぬ恐ろしい事を企んでいるに違いない。こちとて、その邪魔だてをする程の快哉は無い。それに、我がサンタシの国土内に薄汚い足を踏み入れ、聖域なるセレネの森を踏み荒らしたとなると放ってはおけぬ」
難しい顔をするヴィクトル王の顔には確かに怒りの色が見えた。
「ルシファー・・・」
思わず小さく口をついて出てしまった言葉に、朱音自身も驚いて唇を覆う。
その声を聞き逃さなかったフェルデンは、朱音の耳の傍で静かに囁いた。
「魔王ルシファー、憎きゴーディアの王であり、強大な魔力を持ってして魔族を率いる恐ろしい男だ」
この男の名を聞いた途端、なぜか懐かしい気がするのは、元いた世界でも魔王ルシファーの名を何度か耳にしていたせいだろうか。ただ、朱音の知っている魔王フシファーは、実在しない想像上の人物である。
「まったくもって、あの男の考えていることは理解できぬ。この両国の緊迫した状況を知っての行いだとすれば、これは停戦を打ち止める宣戦布告と見なすこともできるというに」
椅子の肘掛の外にひらりと長い衣の袖を降ろすと、ヴィクトル王は肘をついて小さく溜め息を漏らした。
「時空の扉を開く為だけに敵国の地に侵入してまでのことです。アカネを連れて来たにはそれなりの理由があるとしか考えようがありません」
フェルデンの的を得た意見に、王はうむと頷く。
「そちと同意見だ。ロラン、フェルデン、そなた達にアカネを任せよう。ゴーディアにとって重要な鍵となるこの娘を決して敵の手に渡すのではないぞ」
「仰せのままに」
二人は王に向き直り、膝をついた姿勢で礼の形をとった。
王はすっと椅子から立ち上がると、艶やかな刺繍の衣を翻しながら部屋を後にして行った。
「どうかなさいました?」
エメが心配そうに朱音の顔を覗き込む。
「あ、何でもないです。ちょっと考えごとを」慌てて首を振ると、朱音は気ちを振り切るように甘い菓子をぽきんと割って口の中に放り込んだ。
足には未だ包帯が巻かれたままだが、今ではすっかり塞がって、歩くことに不便を感じることはなくなった。
この城に来てからというもの、朱音はこうして以前から夢に描いていたようなドレスを着させて貰い、朱音の身の周りを世話してくれる侍女のエメと、この部屋で一日の大半を過ごしていた。
初めは怪我のせいもあってそんな暮らしも苦痛とは思わなかったが、城の中の者にあまり朱音の姿を晒すことを良しとしなかったヴィクトル王の命により、部屋の外へ出ることさえも厳しい制限を加えられ、何もしないで部屋に篭り続けなければいけない状況が続いていた。
朱音はいい加減そんな状況にうんざりし始めていた。
部屋のノックの音が聞こえ、朱音の護衛を任された術師のロランが顔を出す。
「ロラン!!」
朱音が退屈から連れ出してくれる救世主を見つけたとばかりにロランの元に駆け寄る。
「・・・そんな目で駆け寄られても僕は何もしないからな」
鬱陶しそうにしっしっと払いのける真似をするロランは可愛らしい顔に似合わずのなかなかの毒舌少年だった。
「ロラン、わたし、いつ元の世界に戻れる? ねえねえ、いつ??」
自分よりも少し背の低い少年のローブの裾を掴むと、朱音はくいくいと引っ張った。
「だから何度も言ってるだろう!? お前はゴーディアに狙われているんだ。この城に張られた結界内から外に出た途端、お前に掛けられた魔術を察知して、すぐさま敵の追手に連れ去られるのが落ちだ。せめて魔術の効力が切れるまではここでじっとしていろ」
まだ声変わりのしていないロランの声は、朱音の弟、真咲のことを思い出させてくれる。
「じゃあ、いつになったらその魔力の効力ってのがなくなるの? こんなところにずっと閉じ込められて、わたし頭がおかしくなりそうだよ!」
ロランはぷいと朱音に背を向けた
「お前は本当に頭の悪い女だな。そんなこと僕にわかる筈ないだろ! だいたい、僕がその掛けられた魔術を解こうとしたことも既にフェルデン殿下から聞いているだろう!」
ロランは国王お気に入りの術師で、自身もその能力に自信を持っていた。それなのに、朱音にかけられた魔術が解けないということでひどく自尊心が傷ついているようであった。
「とにかく、その魔術の効力が切れるのはかけた本人にしかわからない。ぼくから言えるのは、それを掛けた奴ってのが、相当の魔力の持ち主だってことくらいだ」
ロランの服を引っ張っていた朱音の手がスルリと解けるのがわかった。エメは心配そうな表情のまま、カップにティーを注いでいる。
「だって・・、ロランもフェルデンもあんまり来てくれないじゃない・・・」
しゅんと俯く朱音は年下の筈のロランよりも不思議といくらか幼く見えた。
「お前! 殿下のことを呼び捨てに・・・!」
真っ青になって叫ぶ。
「フェルデンがそう呼べって」
ぶつぶつと膨れっ面で朱音は呟いた。
「ロラン様、アカネ様の言っていることは本当のことです。フェルデン殿下は確かにアカネ様にそのように呼ぶようにと日々仰っています」
エメが困ったような笑いを浮かべながら、ポットをテーブルの上に静かに置いた。
「さあ、ハーブティーが入りましたよ。ロラン様もどうぞお掛けになってくださいな。サンタシが誇るリリーの葉とチチルの実を燻して作ったハーブです。ストレスを緩和してくれる効果もあるんですよ」
本当にこの娘の気配りにはいつもながら感心してしまう。
ロランも渋々エメが促す椅子に腰掛ける。
「護衛を任された僕はまだしも、国王直属の騎士団の指揮を任されるフェルデン殿下がお前のような卑しい者にこれ程お気を掛けてくださるなど、この上なく幸せなことだと思えよ? 今は国も緊迫した状態なんだ。お忙しい身であられることに変わりはない」
カップを手にとると、ロランはふんっと鼻を鳴らして口をつける。
「フェルデンって騎士団の指揮までしてるの!?」
あの青年騎士がヴィクトル王の実の弟であり、王族であるということは知っていたが、この事実は朱音にとって驚くべき、そして実に納得のいく事実であった。
(そっか・・・、だからいつもあんな軍人さんの服を着てるのか)
朱音も遅れて席に着くと、エメの入れたハーブティーの入ったカップを手にとった。
「お前、そんなことも知らなかったのか? ほんと頭悪いよな」
呆れ顔で毒を吐き続けるロランに、朱音は不機嫌そうに視線を送る。
「煩いなあ。だって誰にも教えて貰ってないんだし、知らなくたって仕方ないじゃん」
「知らなくたって予想位できるだろうが。聞けばエメだって喜んで教えてくれただろうさ」
毎度こんな調子でロランと口喧嘩をするのが日々の日課になりつつある。エメは気にもしない様子でハイペースでなくなってゆく二人のティーカップに小まめにティーを注ぎ足していた。いつもの如く、これが収まるのは、一刻程口喧嘩し続けてすっかり二人が疲れてしまった後である。
しかし、退屈で仕方のない今の暮らしの中、こうしてロランと思う存分口喧嘩をすることのできる時間は、朱音にとって幸せな一時と言えないこともない。
もっとも、ロラン自身はいい迷惑と思っているかもしれないが。
「まあ、お前は心配するな。いずれ掛けられた魔術が解けたら、才ある僕がお前をアースへと無事に送り返してやる」
素っ気無くそう言い残すと、ロランはぷいと振り向きもせず朱音の部屋を退出して行った。
「ロラン・・・」
口を開いたまま、朱音はロランの出て行った扉をじっと見つめる。
「アカネ様、ロラン様は言葉は悪いですが、本当にあなたをお守りしようと必死になっておられるのですよ」
エメはにっこりと笑い掛けると、手際良くティーのセットを片付け始めた。
「うん・・・、わかってる・・・」
そう言って、朱音は見慣れた美しい絵画に目をやった。
(そう言えば、この絵、どこのお城だろう・・・)
ある朝、とんでもないことが起きた。
「******」
昨晩まで確かに理解できたはずのエメの言葉が、聞いたことのない響きとなって、突然理解できなくなったのである。
「な、なに? エメ??」
何度聞き返しても返ってくる言葉は全くもって理解できず、朱音はただ狼狽した。エメの方も朱音の言っていることがわからない様子で、その切羽詰った状況に気付いて慌てて部屋を飛び出していった。
(な、なんで??)
混乱して椅子にへたり込んだ朱音は、テーブルの上で頭を抱え込んだ。
思い起こせば、アザエルに攫われたあの夜にどうして違和感もなく言葉が通じることに異変を感じなかったのだろう。これはひょっとすると、ロランの言うように、自分は本当に頭が良くないのかもしれないと思い始めていた。
「*****!」
勢いよく開かれたドアから現れたのは、息を荒げたフェルデンと、そしてそのすぐ後ろになぜかロランの姿も。
「*****? *****・・・」
心配そうに駆け寄るフェルデンが懸命に何かを話しかけてきてくれているのはわかったのだが、今の朱音には彼の言葉はさっぱりわからない。
「わかんない、フェルデン、あなたの言葉がわかんないよ」
昨夜、部屋を訪ねてきてくれたフェルデンは、いつものごとく朱音の元いた世界について聞きたがり、車や飛行機などの話をしたばかりだった。それに、家族を思い出してはホームシックに陥いる朱音の髪をいつも優しく撫でてくれたのだった。
そんな彼の言葉が理解できない。急にこの世界に一人ぼっちで置き去りにされてしまったような不安と孤独を感じ、朱音はぼろぼろと涙を零し始めた。
「******」
安心させようと、フェルデンが朱音の髪を撫でる。