ただの美容師であるこの男が、なぜサンタシの遣いの正体まで知っているのか、と朱音とルイは驚きの顔でクリストフを見つめ返す。
「サンタシとゴーディアは敵国同士ですよね。十年前にサンタシの玉座にヴィクトル王がついてから、やっと得た停戦状態ですが、その関係もいつ崩れるかもわからない・・・。そんな敵国の王族騎士を、なぜ貴方は見守りたいと?」
 ルイは魔城で朱音が打ち明けてくれた事実から、なんとなくその理由に気付いていた。
 即位パーティーであの男、フェルデンに会ったときのクロウの様子は尋常では無かった。それに、その夜の悲劇もきっとあの男が関係していることは薄々感じていた。少年王の魂、即ち元の少女の魂が、サンタシの騎士に抱く特別な感情を。
「えと、つまりですね、ちょっと事情があって詳しくはお話できないんですけど、以前に、彼にはすごくお世話になって・・・。その恩返しと言うのか、何というか・・・」
 誤魔化し笑いをする朱音に、ルイは自分が気付いてしまったことを悟られまいと、ふっとよそよそしく目線を逸らし、カップに口をつけた。
「彼らに危険が迫っているんです。ゴーディアの元老院達が、アザエルから情報が漏洩することを怖れて腕利きの刺客を放ったんです」
 クリストフの目がじっと目を細めた。
「なるほど・・・、アザエル閣下が自ら身柄をサンタシに委ねたという話は本当だったのですね」
 この男は、本当にどこまでも知り得ない情報をどうやってか掴んでいるらしく、謎は深まるばかりである。
「では、話は簡単ではないですか。アザエル閣下程の魔力を持った方が近くにおられるのでしたら、直接刺客に狙われていることを知らせてやればいいではないですか?」
 朱音はとんでもない、というようにぶんぶんと首を大きく横に振った。
「なぜです?」
 クリストフもルイも興味深げに真っ青になった朱音の顔色を見た。
「だ、駄目だよ! だいたい、アザエルは今魔術を封じられているし、フェルデンに直接会うなんてできない!」
 あの優しい目にもう一度憎しみの色を浮かべられたら、もう朱音はきっと耐えることはできないだろう。
「アザエル閣下は魔力を封じられているのですか? それは少々きついかもしれませんね・・・」
 ふむと腕組みをしてクリストフは考え込んでしまった。
「しかし、サンタシの王族騎士に直接会えないというのは・・・?」
 動揺して急に落ち着きをなくした朱音は、被った毛布を無駄に引っ張ったり、乱れてもいない髪を手櫛で整えたりし始める。
「えっと、その、だから・・・」
 そんな主の姿に堪らず、ルイはとうとう口を口を挟んだ。
「サンタシの王子は陛下を覚えていないのです。記憶をなくされたようで、今は敵国としての認識しかありません。そんな相手に、国王自ら近付いて、我国が刺客を送った、などと直接話などできますか? そんなことを言えば、今より国同士の確執は強くなるでしょうね」
「まあ、確かに・・・」
 ルイの機転のきいた嘘に、納得はしていないようだが、クリストフは取り敢えず理解は示してくれたようだった。
 クリストフは、空になった朱音のカップを受け取ると、古ぼけた丸テーブルの上にことりと置いた。
「わたしは無理に全てを聞きだそうとは思いません。陛下が望んだときに話してくださればれでいいですし、話さずずっと心の中に仕舞っておかれるのも自由」 
 驚き見開いた朱音の真っ黒な瞳には、暖炉の火が映り込み、その中でオレンジ色に美しく燃えていた。
「ただ、一つだけ質問することをお許しください。いつか、陛下は今の自分が自分じゃないと話しておられましたね。陛下、これは自分探しの旅ですか?」
 ルイが見守る中、朱音はしっかり頷いた。
「うん、そうかもしれないね。今のわたしは中身と器がちぐはぐだから・・・、今生きてる意味を探さなきゃ」
 ふっと目を緩ませて、クリストフは笑みを零した。
「それを聞いて安心しました。陛下が望むのであれば、わたしはサンタシの遣いの者達から着かず離れずの距離をとっての旅の手助けをすると誓いましょう」
 優雅にお辞儀をすると、クリストフは静かに朱音の白い手をとった。
「これでも、私は人を見る目があるのです。でも、これだけは覚えておいてください」
 濃げ茶のくるくるとカールした髪をふわりと揺らして、クリストフは膝を床につき黒髪の朱音の目をじっと見た。
「わたしは、自由な男です。誰からも束縛されない。わたしを動かすことができるのは、わたし自身の意思だけだということを・・・」
 そして目鼻立ちのくっきりした謎のこの男は、にこりと邪心の無い顔で微笑み掛けた。
「即ちわたしは誰の命令でもなく、わたし自身の意思で陛下の自分探しの旅にお付き合いするということです」
 ルイはまだこの謎多き美容師の男を信用仕切れない気持ちでいっぱいだったが、なぜかもう少し様子を見ていようと、そう思えたのである。

『タシタシタシ』
という奇妙な音で朱音は目を覚ました。
 朱音の眠るベッドの傍らには、ルイが毛布に包まったまま可愛らしい寝顔で寝息を立て、クリストフは、丸テーブルに突っ伏したままいつの間にか寝入ってしまったようである。
 薄着の彼の肩にも、今はブランケットが掛けられている。流石に寒くなったのだろう。
『タシタシタシ』
 未だ続く音の正体を追い、朱音はそっとベッドを抜け出した。
 二人を起こさないように細心の注意を払い、立てつけの悪いドアをなんとか開くと小屋の外へ出た。
 外気は冷やりとし、朝霧がかかっている。しかし薄暗いながらも確かに太陽は昇り始めていた。冷たい空気にまだ半分眠りの中にいた朱音の頭がすっきりと晴れていく。
 先程よりも近くで鳴る音の方を見て、朱音は思わず笑みを洩らした。
「クイックル!」
 朝霧の中に見えた小さな影は、あの小さな白い友達、クイックルだったのだ。  
白鳩は懸命に自らの翼をはたたかせて、小屋の窓を叩いている。
「おはよう、クリストフさんを呼んでいるの?」
 微笑みかける黒髪の朱音に気付き、クイックルはホロホロと喉を鳴らしながら首を傾げる仕草をした。
「おや、エリック、戻ったのかい?」
 突如背後で見知らぬ声がして、朱音ははっとして朝霧の中に目を凝らした。
「いつ戻ったんだい? 戻ったんなら声くらい掛けて・・・」
 そう言い終わらないうちに、霧の中から現れた中年の女は口をあんぐりと開けた。女は、芋のようなものをいくつか入れた網籠を腕に抱えていた。その中の一つがころんと地面に転がると、女ははっとしたように言った。
「こりゃあ驚いた・・・。あんた、えらい別品さんだねえ! エリックのこれかい?」
 小太りな女は、空いた左の手の小指を立ててにかりと愛想よく笑った。
「あの・・・」
 どう反応していいものかと戸惑っていると、ギイと音を立てて小屋のドアが開いた。

「おはよう、アレットおばさん」
 焦げ茶のくるくるとカールした髪にちょっぴり寝癖をつけたクリストフが、寝惚け眼で背中を搔きながら出てくる。
「おや、エリック。お前さん、いつ帰ったんだい? 私も旦那もあんたの帰りを今か今かと待ってたんだ、帰ったんなら声ぐらい掛けなさいな」
 女は、転がった芋を屈んで拾い上げると、腰に手をやって言った。
「すみません。昨日は着いたのが遅かったものですから、声を掛けるのは控えたんです」
 クリストフはいつの間に着替えたのか、白いカッターと茶色いチェックの入ったベストを身につけ、昨晩の闇夜に紛れる為に扮した紺の上下は既に取り払われていた。
「それより、そこのえらく別品なお嬢さんはどなただい? 奥手なお前さんが連れて来た初めての子じゃないか、ひょっとして、お前さんもとうとう身を固める決心が着いたね!?」
 朱音はきょろきょろと周囲を見回した。アレットが言った“お嬢さん”がどこにいるのかと思わず探したのだ。
 くすりと笑うと、クリストフは朱音の手をとって耳元でこう囁いた。
「アレットおばさんが言っているのは、貴方のことですよ、陛下」
 ぎょっとしてクリストフを振り返る。
 確かに魔城ではさんざん美しいだとか魔王の生き写しだとか言われてはきたが、まさか“お嬢さん”などと言われるなど思いもしなかったのだ。ましてや、今はクロウという少年の姿である。
「お前さんたら、ある日突然王都の景色のデッサンに行くって言ったっきり、もう三ヶ月も留守にして・・・。突然帰ってきたと思ったら、こんな年端もいかないお嬢さんを連れ帰ってくるなんて」
 呆れたように笑うと、アレットは籠の中の芋を二つ程手にとって朱音に差し出した。
「エリックは見ての通り変わり者だろ? あんたも苦労するだろうけど、どうか気長に付き合ってやっとくれね。ほら、さっき畑で採れたばかりのトト芋。朝食のスープに入れるといいよ」
 言われるがまま、朱音はアレットからトト芋を受け取った。
 見た目は長芋にも似ているが、土の香りに混じってほんのりと甘い香りも漂っている。
 ふと朱音は自分の今の服装を思い出した。
 堅苦しい王服を寝苦しいのではと気遣ってくれたクリストフが、これまたどこからか灰色のセーターを貸してくれていたのだ。
 しかしそのセーターはまだ少年の身体には少しばかり大きく、袖口も数回折り曲げていたし、丈も随分長かった。
「ありがとう、アレットおばさん。後でいただくよ」 
 クリストフはにっこりと朗らかに笑うと、アレットは満足したように、満面の笑みで鼻歌を歌いながら元来た道を引き返して行った。
「なるほど・・・。陛下は絶世の美をお持ちですから、ルシファー陛下の顔を見たことのない者からすると、貴方は女性にも見えてしまうらしい」
 困ったように苦笑を溢すクリストフの手を朱音はぐいと引っ張った。
「ねえ、エリックって?」
 途端、クリストフは焦げ茶の瞳を見開くと、数秒朱音に向き合った後、ぷっと吹き出した。
「ああ! 気付いてしまいましたか!」
 頬を膨らませる朱音に涙目で笑いかけると、
「エリックはわたしのことですよ。勘の鋭い陛下のことだ、もう気付いておられるかと思いますが、この家もわたしのです」
 小屋の木壁を軽くノックしながら、クリストフは言った。
「そうじゃないかと思った・・・。毛布は出てくるし、飲み物は出てくるし、服は出てくるし、留守にしている知り合いの家にしてはあまりに図々しいから変だと思っていたんです」
 朱音は膨らませた頬のまま、両手を腰へやった。
「すみません、騙すつもりはなかったんですけど、説明するのが面倒臭くって・・・。エリックはわたしが自由に生きる為の、もう一つのわたしの名です」
 ファサファサと羽ばたいて飛んできたクイックルは、飼い主の肩にご機嫌でとまった。
「ふ~ん、クリストフさんは腕のいい美容師だって話だけど、エリックさんは絵を描く人なの?」
 小屋の中に転がっていたデッサンに使う道具の数々、描かれた絵たち。
「まあ、自称売れない画家ですね。売れない画家の肩書きって便利いいんですよ? 好きなときに好きなだけ、好きなところへデッサンの旅に出られるんですから」
 クリストフは、デッサンを描く空真似をしながら、朱音に小さくウィンクを送った。
 朱音は、クリストフという男が、ますます謎に包まれていることを改めて感じた。
「さて、そんなことはさておき、アレットおばさんにもらったトト芋を使って、温かいスープをご馳走しますよ」
 これ以上詮索される前にと、クリストフはくるりと朱音に背を向けて小屋のドアに手を描けた。
 肩の上の白鳩は、じっと身動き一つせずにいる。
「クリストフさん!」
 なんですか? と振り向いた謎多き男に、朱音は思い切って話しを切り出した。
「お願いがあります・・・!」
 ドアに手を掛けた手を引っ込めて、クリストフは少年王の正面に向き直った。何か大切なことを言おうとしている朱音の様子を察知したのであろう。
「はい?」
 彫りが深く顔立ちのはっきりとしたクリストフの焦げ茶の瞳が、長い睫がじっ朱音の次の言葉を待っている。
「旅の間、わたしのことは朱音と呼んでもらえませんか? これからはただの友達として・・・」
 しゅんと項垂れてしまった少年の姿をじっと見つめた後、クリストフは優しく微笑み返した。
「ええ、わたしも貴方とは友達になりたいと思っていたんです。構いませんよ、アカネさん」
 長い間その名で呼ばれることの無かった朱音は、懐かしい響きに思わず顔を綻ばせた。

  


  

 魔城を出立してから既に三日が経過していた。 
 行きは馬を全力で飛ばして一日で向かった道のりだったが、こうして荷馬車でガタガタと揺られながらでは、想像以上の時間がかかっていた。
「フェルデン殿下、今日はもうこれ以上は無理かと・・・」
 ユリウスが荷台で項垂れるようにしてもたれ掛かる青年に声を掛けた。
「兄上が待っている・・・、いいから進め」
 掠れた声には力が無く、うまく隠してはいてもほんの少し息が上がっているのがわかる。
「具合が悪そうだな」
 後ろ手に縄で縛られたアザエルが感情の無い声で言った。その声は前で鞭を操作するユリウスの耳には届いていない。
「黙れ」
 俯いたまま、フェルデンは怒気を含む声で言った。
「まだ傷は塞がっていないのか?」
 アザエルの質問に、青年は無言を通したまま返事をしようとはしなかった。
 案の条、傷の治りきらないうちの無理が祟って、フェルデンの肩の傷は悪化していた。熱をもった傷口は膿み、疼きをもたらした。その為、フェルデンは高熱に悩まされ、痛みと朦朧とする意識の中で必死に闘っていたのである。
「殿下! やっぱり医者に診て貰った方がいいです・・・!」
 ユリウスは突然馬の足を止めると、勢いよく背後を振り返り、荷台に身を乗り出した。
「なんともない・・・」
 ユリウスは俯くフェルデンの額に手の平を宛がった。
「なんですか、この熱! どうして今まで黙ってたんですか!?」
 ユリウスは軽い身のこなしでひょいと黄土色の手荷物を引っ掴むと、中身を全部ひっくり返してぶちまけた。
「ああ、くそっ、腹痛薬しか入ってない!」
と、腹立たしくぶちまけた中身を蹴飛ばすと、ユリウスはドサリと腰を降ろした。
「焦っても仕方が無い。次の道を左へ抜けるとボウレドの街がある。そこならば顔利きの街医者もいる。まずはそこへ向かえ」
 アザエルが表情の無い顔のまま、ぽつりと言った。 
 この三日というもの、魔力を奪う腕輪を嵌められた魔王ルシファーの側近は、一度も口を開いていなかった。
 フェルデンとユリウスが万が一のことを考え、男の両手首には縄がきつく結びつけられ身体の自由さえも奪い拘束していた。
「そんな必要なんてない、ユリ、いいから予定通り港へ迎ってくれ」
 ボウレドへの道は、二人のサンタシの遣いが向かっている、アルノ船長の待つ港からは大きく逸れることになる。
「サンタシの者は噂通り愚鈍な者が多いようだ」
 見下したようなアザエルの口振りに、
「なんだと!」
と、ユリウスが掴みかかった。
「ボウレドならばここからさほど離れてはいない。急げば日が暮れるまでには到着できる。しかし港まではまだ少し距離がある、野宿は免れないだろうな」
 ユリウスはちっと舌打ちをすると、身動きのとれないアザエルの服から仕方無く手を離した。
「ユリ、おれはなんともない。これはこの男の策略だ、騙されるな。港から遠ざけ、おれ達が母国へ帰るのを妨害する気だ」
 熱のせいで潤んだ目をユリウスに向けたフェルデンは、すっかり熱くなっている手で部下の腕を力無く掴んだ。
 ユリウスは困惑した。
 ここにいる碧髪の男は蛇のように狡猾で信用ならない。