「どうかなさいましたか?」
異変に気付いたアザエルが朱音に視線をやる。
「えっと・・・。トイレに・・・」
アザエルがこくりと頷くと、ちらと洞窟の外を見やった。洞窟の外は木々や草が茂っているらしく、どうやらそこで用を足せということだろう。
もじつきながら、朱音は洞窟から足を踏み出した。
先程と変わらない筈の山。でもなんだか妙な感じがする。梟や虫の鳴き声がしない。
ふと天を見上げると、朱音は驚きで目を丸くした。
月が二つ。
西の空に大きな三日月が一つと、東の空に小さな満月が一つ・・・。
「え・・・?」
もともとアザエルからうまく逃れる為に嘘をついた朱音だったが、ここで初めて自分が置かれている異常な環境に気がついたのだ。
「ここ・・・どこ・・・?」
呆然として立ちすくむ。
まるで金縛りにでもあったかのようにその場から動けない朱音に向けて、洞窟からアザエルの声がした。
「お逃げ下さい!」
その直後、洞窟の中から激しい剣のぶつかりあう音が響き、ときどき数人の男のくぐもった呻き声が漏れる。
一体アザエルに何が起こったのか。朱音の心の危険信号が点滅し、とにかくここは危険だから離れるべきだと知らせる。なんとか自分自身を奮い立たせ、朱音は駆け出した。
(とにかく逃げないと! 生きていれば後から考える時間はいくらでもある・・・!)
鋭い野山の草は素足の朱音に容赦なく切り付ける。
「うっ・・・」
あちこちきり傷だらけになり、足の裏も小枝や小石を踏んづけたせいでひどく痛む。ひょっとすると出血し始めているかもしれない。
「誰かいるぞ! 追え!」
朱音の気配を察知した男達が、数人朱音の後を勢いよく追いかけてくる足音が聞こえる。
(どうしよう・・・、このままじゃ殺される!)
痛みをこらえながら、朱音は辺りを見回して身を隠せそうな場所がないかを必死に探した。
目に入ってきたのは、巨大な幹。 樹齢何百年もの大木である。
咄嗟にその影に身体を滑り込ませると、息の上がってしまった口を両の手で覆い、男達が行き過ぎるのをじっと待った。
「確かこの辺りに逃げ込んだぞ」
低い男の声がすぐ近くまで迫っている。
(お願い、通り過ぎて・・・!)
朱音の願いむなしく、まだ別の男の声が聞こえた。
「見ろ、血だ・・・」
身体の大きな男が地面を明かりで照らすと、地面を濡らす血液をじっと目で追った。
点々とつづく血痕は、巨大な木まで続いていた。
ゆっくりと近づく数人の男達の足音。
(なんでわたしがこんな目にあわなきゃなんないの?)
朱音は恐怖で顔を真っ青にしながら、震える手で口を覆って静かに時を待った。
ピタリと止まった足音。
張り詰めた空気にきつく閉じた目をおそるおそる開いて見てみる。
「驚いた・・・。人間の女の子だ」
朱音の目の前に立っていたのは、身長一八〇を優に超える、金色の短い髪の青年騎士であった。
恐怖のあまりがたがたと肩を震わせて潤んだ瞳で見上げる少女の姿を見て、青年は持っていた剣を鞘に収めた そして青年は少女を驚かさないようにそっと屈んで目線を合わせると安堵の表情を浮かべた。
「殿下、これは一体どういうことでしょう」
青年のすぐ後ろで剣を鞘に収めた小柄な騎士が、困惑の表情を浮かべながら言った。
「われわれの読みが甘かったようだ。これからのことは一度城へ戻ってからゆっくりと検討するにしよう」
青年は目線をほんの少しだけ後ろの騎士にやると、落ち着いた口調で答えた。
「さて、君の名前は? おれの名はフェルデン・フォン・ヴォルティーユ」
ふっと優しく微笑むフェルデンの瞳は、美しく透けるようなブラウンであった。
「・・・朱音・・・」
震える声の少女の髪をえらかったねとばかりにフェルデンは優しく撫でた。
「よし、アカネ。おれ達は君を傷つけたりしない。どうやら君は怪我をしているようだ。手当てをしたいんだが構わないか?」
フェルデンの優しい声に、命の危機はどうやら去ったことを悟った朱音は、コクリと頷いた。と同時に、一気に気が緩み、その場へとくず折れた。
「アカネ!?」
心配そうなフェルデンの声を遠くに聞きながら、朱音は再び眠りの淵へと落ちていったのである。
深いまどろみ中で、朱音は懸命に瞼を持ち上げようようとする。
(眠い・・・)
ひどい眠気がする。昨日の奇妙な体験で精神的に余程疲れていたらしい。いや、あれはひょっとすると夢だったのかもしれない。受験を控えた十五歳の朱音にとっては、現実逃避という密かな自己防衛に走り始めていたのかもしれない。
「ん・・・」
重い瞼を持ち上げると、朱音は僅かに数回目を瞬かせた。
ふかふかのベッド。見慣れぬ部屋の天井。
驚きで飛び起きると、部屋の周囲をぐるりと見渡してみた。
天井と思っていたのは実は天蓋付きのベッドで、部屋の中はフランス王朝に登場しそうなテーブルが一つ。壁際には恐ろしく光沢のある引き出し付きの棚が置いてあり、そのすぐ上には巨大な絵画が吊るされていた。
(嘘・・・、あれは夢じゃなかったの?)
信じられない光景に、すっかり眠気が吹き飛んでしまった頭で、ベッドからおそるおそる這い出すと朱音はベッドから足を降ろす。
すると包帯に巻かれた自らの足が目に飛び込んできた。
(そうだ、わたし、足を怪我して・・・)
よく見ると、朱音が身につけていた泥だらけのTシャツとハーフパンツは、いつのまにかゆったりとしたワンピース型の白い服に着替えさせられている。
戸惑いつつも床に足を降ろすと、床についた足は途端に鈍い痛みを訴えた。
パニックを起こしそうな思考回路の中で、一種の冷却装置のようなものが働いて、自分が何かの事件に巻き込まれて、眠っている間に外国の地へ拉致されたのだと冷静に自分自身に言い聞かせる。
(そうよ、そうに決まってる)
痛む足を引きずりながら、朱音は絵画の前に足を進めた。
広大な緑の野に囲まれた地のすぐ下は崖になっており、その崖のすぐ上を美しい古城が太陽の光を浴びて輝いている。城のすぐ手前には透き通る程の美しい湖。崖下は深い森が広がっていた。
ふと朱音の頭に、空に浮かぶ二つの月の映像が過ぎる。
(あれはきっと何かの間違い、そう、そうに違いないわ・・・)
狼狽する朱音の背後で、ガチャリと部屋のドアが開いた。
「あら、お目覚めでしたか」
若い娘が姿を現した。そばかすだらけの娘は見慣れた黒髪の日本女性とは程遠く、茶味がかった髪をひとつに小さく纏めている。
「すぐにフェルデン殿下を呼んでまいりますから、もう少しベッドでお休みになってお待ちくださいね」
侍女のような服に身を包んだ娘はくるりと踵を返すと急ぎ足で部屋を出て行った。
一体ここがどこなのか、どうして自分がこんなところに来てしまったのか、一人で考えてはみるものの、情報の乏しい現状ではどうしようもない。
そのことに気付いた途端、ジクジクと痛みを発し始めた足の裏をおそるおそる覗き見ると、巻かれた包帯からじわじわと血が染み出してきていた。
「・・・・・・」
観念して、朱音は痛む足を引きずりながら、元いたベッドまで戻ってくると前のめりにダイブした。
ふかふかとしたベッドは朱音の起こした衝撃をものの見事に飲み込んではくれたが、当の朱音はうつ伏せに倒れたまま両の手で頭を抱え込んでいた。
「目が覚めたんだな」
突然背後から聞き覚えのある男の声が降ってくる。
慌てて身体を反転させて振り向くと、昨晩、山の中で見たあの金髪の青年、フェルデンが柔らかい笑みを浮かべてそこに立っていた。
「足・・・、出血しているな。しばらくは歩くのを控えた方がいいだろう」
心配そうなフェルデンの顔をじっと見つめたまま、朱音は静止画のように動かなくなった。
それというのも、昨晩は暗がりの中であまりよく見ていなかったが、フェルデンの容姿はあの碧い瞳の男、アザエルに負けずとも劣らない、彫刻のように美しいものだったのである。
細身で女性的な印象を与えるアザエルに比べ、フェルデンの身躯は鍛え抜かれた男らしい印象で、短い金の髪はきりりと引き締まった美しい顔を更に上品に見せていた。透けるようなブラウンの瞳は、まだほんの少し少年の頃の名残を残していて、朱音への純真な興味の色が伺える。
「アカネ?」
ふいにフェルデンの口から自分の名が飛び出した途端、ほんのりと桜色の頬を染めた朱音が慌ててむくりと身体を起こした。
長身のフェルデンは白を基調とした軍事服のような服を身につけ、詰襟の際には金の刺繍が美しく施されている。併せ襟のマントさえも白く、その下から僅かに覗く質の良い皮ブーツだけが唯一の茶だ。
これだけでも、この青年が大層身分の高い者だということは朱音にもわかった。
「フェ、フェルデンさん。た、助けていただいて本当にありがとうございました」
カチコチになったままぎこちなく礼の言葉を口にする朱音の姿を微笑ましく思ったのか、フェルデンは口元をふっと緩めると、穏やかな口調で言った。
「畏まらなくていい。おれのことはフェルデンと呼んでくれ」
フェルデンはゆっくりと朱音の前で腰を落とした。
いきなりすぐ目の前までフェルデンの美しい顔が降りてくると、美形に免疫のない朱音は耳まで真っ赤にしてふっと目線を逸らせた。
「さて、話してくれないか。君が昨晩どうしてあの森であの魔族の男と一緒にいたのかを・・・」
視線をゆっくりとフェルデンへと戻すと、先程までと打って変わって、彼の目は真剣味を帯びていた。
「魔族・・・?」
朱音は妙な言葉に違和感を感じ、思わず口に出してしまっていた。
「まさか、あの男が魔族だと知らずにいたのか? だが、君はどうやらある種の魔術を掛けられているらしい。一体、あの森で何があった? 奴に何をされそうになったんだ?」
魔族や魔力という非現実的な言葉の勃発に、朱音は震える声でベッドの白いカバーを強く握り締めた。
「聞きたいのはこっちです・・・! 一体ここはどこなんですか? 昨日から魔王だとか魔族だとか魔術だとか、そう、それに二つの月とか・・・。意味が解らない! わたしは眠っている間に無理矢理あの人に連れて来られただけなのに・・・!」
フェルデンのブラウンの瞳が僅かに揺れるのがわかった。
「君はもしかして、アースからやって来たのか!? ・・・だとしたらなぜだ、なぜ只の人間である君を連れて来る必要があるんだ!」
フェルデンはまるで自分に問い質すかのように声を荒げた。
ビクリと身体を震わせる朱音の姿を見て、青年はすまない、と声を落とした。
「ここはレイシアという君のいた世界“アース”とはまた別の世界だ。つまり、君はあの男の手によって、異界の地に連れて来られたということになる」
フェルデンの言葉の意味を理解できずに、朱音は呆然とフェルデンの顔を見つめる。
「レイシアには二つの大国と島国を主とする小国が存在する。そしてこの緑豊かな国サンタシは二つの大国のうちのひとつだ」
フェルデンはすっと立ち上がると、塗りの素晴らしい棚の中から、使い古した本を一冊取り出した。
「これはこのレイシアの世界地図だ。ここがサンタシ。そして向かいの大陸に広がる大国が我らの宿敵であり魔族の住まう国、ゴーディアだ」
本の見開きのページに描かれている見たこともない不思議な地図をフェルデンは朱音に見せた。
呆然としながら朱音はフェルデンからひったくるようにその本を手元に引き寄せる。
少し日に焼けて黄ばんだ地図は、確かに朱音が普段目にしていた日本やアメリカなどの国がかかれているものとは似ても似つかない。
巨大な大陸が二つ、海を隔てて、羽を広げたような形をしている。右側に位置する大陸にはゴーディアと、左側に位置する大陸にはサンタシと記されている。左側の大陸は右側の大陸と比べると少し大きく、北の辺りは雪が積もっている様子が描かれている。おそらく、南の方は南国のような気候となっているのだろう。大陸から千切れたような小さな島の絵が無数にある。対してサンタシは大陸の半分以上を占め、その下にいくつもの小国が連なっていた。
「う・・・そ」
信じられないことを聞かされた朱音は、愕然としてその地図をポサリとベッドの上に落とした。
「気持ちはわかる。おれ達の予想だが、おそらくは君は、ゴーディアの王の命(めい)でアースの地から贄(にえ)として連れて来られたのだろう」
「に、贄・・・?」
フェルデンの口から出たおぞましい言葉は、朱音を震え上がらせるには十分であった。
「だが、なぜわざわざアースの地から連れて来なければならなかったのか、何を目的にしているのかはわからない・・・」
ベッドに落ちた本を拾い上げながら、フェルデンは溜め息を溢した。
「やだ・・・、わたし一体どうなるの!?」
ガタガタと真っ青になりながら震える朱音を哀れみの目で見つめると、フェルデンはそっと朱音の髪を優しく撫でた。
「怖がらせて悪かったな。でも、大丈夫。おれ達が君を絶対守ってやる」
フェルデンの手は逞しく、それで髪を撫でる手はとても優しかった。
「わたし、元の世界にもどれるよね・・・?」
フェルデンの手がピタリと静止する。
「正直なところ、おれには分からない・・。でも、陛下直属の術師なら何か分かるかもしれない」
動揺はしているものの、僅かな希望を抱いているか朱音の表情を、フェルデンは少し淋しそうな微笑みで見つめた。
「陛下?」
「サンタシの王、ヴィクトル・フォン・ヴォルティーユ陛下だ」
朱音は不思議そうに首を傾げた。
「ヴォルティーユ?」
フェルデンはくすりと笑みを溢した。
「そう、ヴィクトル陛下はおれの兄だ」
「・・・えええええええええええええええええええええええええええ!?」
「もう一ついかがですか?」
そばかすの侍女、エメがクッキーのようなお菓子を差し出しながら、朱音に微笑みかけた。
「うん、ありがと」
お菓子に手を伸ばしながら、朱音は一週間程前に初めてサンタシの王ヴィクトルに対面したときのことを思い出していた。
「アカネと申したか、面をあげよ」
フェルデンよりも低音であるヴィクトル王の声に、朱音がおそるおそる顔を上げた。
「お初にお目にかかります、ヴィクトル陛下」
フェルデンに教えられた通りの言葉をなんとか言い終えると、高い壇上の椅子に腰掛けるヴィクトル王を見上げた。
そこにあった王の姿は、予想とは裏腹にまだ二十代後半の若い男のものであった。
幾枚もの木目細やかな金の刺繍の入った布を併せた、艶やかな衣装に身を包み、フェルデンと同様の金の髪は、肩のあたりで切りそろえられており、緩やかにウェーブがかっている。賢王という名に相応しく、少しばかり吊り上った目はまるで隙を感じさせなかった。
「フェルデンからは話は聞いている。大変な目に遭ったな。アースから参ったと?」
張り詰めた空気を断ち切るように、朱音はしっかりとした口調ではいと答えた。
「聞くところによると、そなたには微弱な魔術をかけられているということだ。しばらくは追っ手や刺客に狙われることを覚悟しておかねばなるまい。術の効力が切れるまでは外出を控え、術師の施した結界の中に逃れておくのが懸命であろう」
ヴィクトル王はすっかり恐縮して縮んでいる朱音を見据えたまま言葉を連ねた。
「よって、そなたには術師であるロランを護衛としてつけよう」
ヴィクトル王のすぐ近くに控えていた長い灰色のローブを身に着けた少年が、ヴィクトル王の目配せで朱音の前に歩み出た。
年は十二、三歳という程の頃合で、朱音よりは二つか三つ程年下と思われる。霞みがかった茶色い髪と眼がとても印象的な少年だ。
「陛下、賢明なご配慮、ありがとうございます」
朱音の隣で膝をつくフェルデンが頭を深く下げて礼をとった。それを見て慌てて朱音も礼をとる。