Fahrenheit -華氏- Ⅱ



タバコに火をつけて、煙を吐き出す。


一連の動作だけでも何だか億劫だった。





「「「はぁ」」」





ほぼ三人同時にため息をついて、その場に居た俺たち三人は揃って顔を見合わせた。


俺や裕二がため息吐くってのは分かるけど…何で村木までも?


しかもすっげぇ重そうなため息。


魂まで口から出てきそうな勢いだぜ。


俺が訝しく村木を見ると、ヤツはバツが悪そうに顔をしかめ、乱暴にタバコを消すとさっさと喫煙室を出て行った。


「何だぁ、あいつ…」なんて思ってあいつの痩せた背中を見送っていた俺に、裕二はまたもため息をついた。


「お前も相当ヤバいな。まだ片付いてないんかよ」


自分が撒いた種だと思うが、このやつれ方はちょっと気の毒になってくる。



「ストーカー女さぁだんだんそのストーカーがエスカレートしてって。この頃俺が帰るとすぐに電話を寄越してくるんだ…」


ぅわ!本格的!!


「しかも綾子には浮気してるって疑われてるし…」


あー…そういやあいつ言ってたっけね??


「マジでお前綾子に全部ぶちまけて、警察に行ったら?」


俺の言葉に裕二はタバコをつまみながらも眉を吊り上げた。


「それができたら苦労しねぇって。大体そんな女に付きまとわれてなんて、カッコ悪くて言えるかぁ」


いや、かっこつけてる場合じゃないって。


俺の助言にも裕二は首を振って、結局あいつもタバコを吸い終わると自分のフロアに帰って行った。







俺も裕二も


愛する人をようやく手に入れたっていうのに


うまくいかないな。




これが俺たちに対する代償なのか―――



気が向くままに求めるままに女を手に入れてきた。



これがそんな俺への―――












――――

――


フロアに戻ると、丁度会長からの呼び出しがあり、俺と瑠華は揃って会長室に向かうことになった。


用件は分かっている。


セントラル紡績のブッキングの件ではない。今度、会長が中国支社へ出張に行く件で―――


向こうの物流管理の事情についての話等だ。


構える必要はない。


それでもしっかりと用意した資料を二人で抱えてエレベーターを待っているときだった。


「神流部長!」


二村の声で、俺はうんざりしたように顔を上げた。


またお前かよ。一体何だよ…せっかく瑠華と二人きり(?)だってのに。


不機嫌オーラを出している俺にも二村はペースを乱さない。





「部長!男が好きって何で嘘ついたんですか!!」








二村の言葉に瑠華がびっくりしたように目を丸め、そして不審そうにじとっと俺を見上げてる。


や!これは誤解でっ!!


俺は男が好きじゃありません!


そんな風に目で必死に訴えていると、


TRRRR


瑠華の携帯に電話が鳴った。


「失礼します」小さく断りを入れ、瑠華が携帯を取り出した。「Ah―――yup―――(はい)」書類を抱えなおして、器用に肩と耳の間に携帯を挟んでいる。


瑠華の電話はどうやら仕事の件だ。


どうでも良いけどそれ、「あぁ、いやっ」って聞こえるぞ?
(※親しい人に対する挨拶です。普通ならHelloを使用しますよ♪)


ちょっとドキッとする…けど、何の変哲もない挨拶で……やっぱ相変わらず英語の発音はむずかすぃ。


俺は二村に顔を戻すと、二村はぷりぷりと怒ったように目を吊り上げている。


「どうしてそんな嘘つくんですか!俺をからかってるんですか?」


と声は怒っているものの、本気で怒りを露にした様子はないようだ。


「どうして分かったんだよ」俺は観念して降参のポーズを作った。





「だって部長momo2持ってったじゃないですか。あれレディースですよ?」





二村の言葉に俺は目を開いた。


二村に分からないよう視界の端に瑠華を入れると、





「Yeah―――I'll call again in half an hour.(ええ、30分後に掛けなおします)」


と瑠華が左腕を上げるところだった。












*Labyrinth*







People always choose.
(人は常に選択する)





It wavers and thinks. And a leg is stopped.
(迷い、考え、足を止める)




And it always tries to choose the right way.
(そして常に正しい道を選ぼうとする)




Whether this is really true.
(だけどそれが正しいのかは)




Who knows?
(誰にも分からない)




But
(でも)



Even if wrong,
(間違っていても)




Don't turn.
(振り向いてはいけないの)







No matter what happens.
(たとえどんなことがあろうと)













俺は咄嗟のことで、瑠華の手首を掴んでいた。


腕時計がある辺を―――


俺たちの会話を聞いていない瑠華は、俺の行動に訝しそうに眉をひそめる。


だけど俺が掴んでいた感触が―――


あれ……


違和感を感じて俺はゆっくりと手を離した。


二村はきょとんとして、瑠華は俺の意味不明な行動に一瞬だけ眉をしかめたが、それでもすぐに電話に向かう。


「―――I'm sorry.(失礼しました) ―――OK. See you later.(ええ。ではまた)」


通話を切りながら瑠華が怪訝そうに目を細める。


「どうしたんですか?」


「いや。ちょっと虫…そう、虫がついてて!」


俺は慌てて言うと、瑠華も慌てた。


「え?虫?」


シャツの袖口を振り払って、ちらりと見えたその細い手首にはめられた時計は―――


フランクミュラーのmomo2ではなかった。







グッチの細いバングルタイプの腕時計。ピンクではなく、全体的に白っぽい。


瑠華の今日のお召し物は黒のセットアップスーツに、グレーのリボンタイがアクセントのカットソーだ。


その格好に合わせて時計を選んだのだろう。


「虫、取れました?」


瑠華が心配そうに聞いてくる。


「うん、取れた、取れた♪」慌てて言って腕を戻すと、俺の前で二村がにやにや。


「虫は口実で柏木さんに触りたいだけじゃないですか~?気をつけてくださいね。この人結構遊び人ですよ」


と二村は白い歯を見せて爽やかに笑って、瑠華を悪戯っぽく見る。


内容は全然爽やかじゃないが。


ってかお前と一緒にすな!


二村を睨んでいると、エレベーターが到達した。


瑠華は二村の言葉を真に受けず、


「早く行きますよ」相変わらずマイペースにさっさとエレベーターに乗り込む。その後を俺は慌てて追った。


扉が閉まる瞬間、





二村が意味ありげな冷笑を浮かべていたことに





俺は気付かなかった。














会長室での話も特に問題はなく、親父も含めて俺たち三人はそれぞれ顔見知りでもあるわけだし、和やかに進んだ……わけではない。


ここはやっぱり仕事だからプライベートとは切り離して、親父は俺たちに厳しいことを言いながらも話は終わった。


それほど機嫌が悪いわけじゃなかったから妙なとばっちりも受けなかったわけだけど、


それでもフロアに戻るとぐったりと気が抜けた。


その後はスムーズに仕事をこなし、21時頃に瑠華が帰っていった。


「お先に失礼します」


「お疲れ~」


彼女が帰る間際ちらりと振り返って、その視線が「あとで連絡します」と物語っていた。


ちょっとのことだけど、それが幸せ。


あと少し、がんばるか!


そんな意気込みでパソコンに向かっていると、



俺のプライベート用の携帯に電話がスーツの上着の中で震えた。


ぎくりと身を強張らせると、






“着信:マサキ”になっていた。






この前赤外線で交換したナンバーだ。


でも70%以上の確率で、今夜連絡があることは想像していた。


身構えていた分、ダメージは少ない。


俺は携帯を手に、ブースを離れた。


隣の部署では村木を初めとする幾人か、まだ社員たちが残っている。


非常口の階段近くに身を潜めると、


鳴り続ける携帯を開いて通話ボタンを押した。








「―――はい…」


無愛想に電話に出ると、


『もしもし?あたしよ』


とこっちも不機嫌そうな声。


「掛かってくると思った」


『でしょうね。あんまり動揺してないみたいだし』真咲が少し疲れたような声を滲ませて、ため息交じりに言った。言葉に覇気がない。


『ねぇ、今日これから会えない?』


まだ仕事が残ってる。無理だ。


普通ならこう答えていたに違いない。


でも真咲の抑揚を欠いた声に、思いも寄らず俺自身動揺していた。


「……急にどうしたんだよ」





『別に、急じゃないわ。ずっと思ってた。あなたに会いたいって』





搾り出すようなか細い声に、


数時間前に俺に怒鳴っていたあの覇気は微塵も感じられなかった。


俺はちょっとため息を吐いて腕時計を見ると、






「今から30分であがるから、この前のカフェで待っててくれないか?」





と答えていた。











ほぼ予定通りの時間にアロマルージュに出向くと、真咲はこの前と同じテーブルで同じように紅茶を飲んでいた。


テーブルにファイルやら書類やらが並べてあって、真咲は頬杖を付きながら気のない様子でそのページをめくっている。


「……よぉ」


俺が声を掛けると、真咲はゆっくりと顔を上げた。


元気のないのは明らかだったが、笑顔を無理やり浮かべているようだ。


「早かったのね。前のあんたならここから15分は遅刻なのに」少し目を伏せ、昔を懐かしむように腕時計に視線を落としている。


斜め上から見る真咲の白い顔は、照明を落とした室内に青白く浮かんでいた。


単に元気がないだけじゃない。


前に会ったときより体調が悪そうだった。


それでも伏せた長い睫や、柔らかそうな髪。意思の強そうな唇は昔とちっとも変わらない。


昔と同じ―――綺麗だった。


「どうしたんだよ…っても、俺のせいか」俺は吐息交じりに向かいの席に腰掛けた。


ウェイトレスにホットコーヒーを頼んでいるとき、真咲はファイルをゆっくりと閉じた。


テーブルに出ていた書類も大判の封筒に仕舞い入れる。


ウェイトレスが去っていくのを見届けると、真咲は紅茶のカップに口を付けて、





「さっきは―――ごめん…」




と、小さく謝った。