ちはる 保健室登校中

わたしは、ベットの上で正座して祈った。

淑乃先生以外の人には、絶対会いたくない。怖い。


わたしは、泣きそうだった。

目の前にひかれた薄いピンクのカーテンを見つめたまま、じっとしていた。



突然、ピンクが黒に変わった。

少し経ってから、それが学ランの黒だとわかった。

男子がカーテンを勢いよく開けたらしい。


「ちょっ、ちょっと!」
淑乃先生が椅子から立ち上がったように見えた。

わたしにはよく見えないけど。
それから、男子と見つめあっていた――と思う。

この至近距離でも見えない。



わたしは目が悪い。かなり悪いほうだと思う。
本当なら、すっとメガネをかけていないといけない。

だけど、わたしはかけない。何も、見たくないから。

教室に行かなくなってから、目が悪くてよかったと思い直した。

「見えない」って、気が楽だ。
いつも、プールの中にいるみたい。


はっきりいって、見えなくても困らない。
わたしは授業を受けていないから。

それに、わたしは信じてる。

本当に大事なものは目に見えないって。

(こういう生活を送っていると、キレイ事が好きになるみたい。)
「これ、誰?」

これって言うな!と脳内つっこみをいれた。

淑乃先生は、バツが悪そうに黙っていた。


「おい。神様にもらった大事な口があるんだから、なんか言えよ」

あっ。こいつは、わたしに訊いたのか。

声、出るかな……?一瞬心配になったけど、わたしは自然に名前を口にしていた。

「佐々木ちはる」
意外としっかりした声が出せた。

「ああ。あの、ずっと休んでる!おれの隣じゃん」


あとで知ったけど、教室には一応わたしの机があって、こいつの隣だった。
そして、こいつの名前は松井懐(まつい かい)。


こうして、わたしたちは出会った。
わたしの1日。
保健室で大半を過ごす。淑乃先生としゃべったり、ちょっとだけ勉強する。
一番好きなのは、英語だ。
I like English. 
今度、「一番」って何ていうか教えてもらおう。


今日も、午前中は英語を勉強してから、淑乃先生と他愛もないことを話した。

それから、保健室の掲示物作りを任された。「手洗いうがいをしよう」っやつだ。
ちょうど今完成したから、壁に貼ろうとしている。

淑乃先生が貼ってほしいと言った場所は、カレンダーの上。
身長152センチのわたしには、結構きつい。
右上の画鋲がうまく刺さらない。

わたしは、ぐっと背伸びをした。
仕方ない。イスを使おう。
そう思って、後ろを向いた。

「うわっ」
目の前に、懐がいた。
いつからいたの?

「びっくりしたぁ」
「それはこっちのセリフだよ!」
わたしは自然に言い返していた。

それを見て、懐が笑っている。


「淑乃先生は?」
懐が、保健室を見回していった。
「用事」
わたしは、ぶっきらぼうに答えた。


なぜか、懐とは普通にしゃべれた。
気に喰わないやつだけど、もう怖くなかった。
それから懐は、わたしからポスターをひったくると、カレンダーの上に貼った。

「ありがと」
わたしはつぶやいた。
「でも、ちょっと曲がってる」
意地悪したくなって、文句を言ってみた。

「いーの!」
懐は背高いのに、発言が子供っぽい。

わたしは、そのギャップを考えると、なんだかくすぐったくなった。

おなかのあたりがむずむずして、落ち着かない。

だから、こっそり深呼吸をした。


今年の春。何かが、はじまる予感。
「あ~、腹減った」
懐が天井に向かって言った。
「今日の給食、何かなぁ」

次の瞬間、懐は献立カレンダーを覗き込んでいた。

「げっ。クラムチャウダーとイカリング!?
 ご飯と野菜しか食うものないじゃん」

「嫌いなの?」
わたしは、訊いた。

「無理無理。おれ、貝とイカ嫌いー」

わたしは、思わず噴き出した。
「懐なのに……ぐふっ」

「あっ。それいっちゃだめでしょ」

くだらないことなのに、おかしくてしょうがない。
ツボにはまって、抜け出せない。

「そうだ!ちはる、ほっそいからおれの分あげる」

わたしの、骨と皮だけみたいな体を見て言った。

「そんな食べれるわけないじゃん」
もっともなことを言った。
「細すぎるモデルは、世界的にも人気ないんだよ」
「いや、モデルじゃありません」

「でも、もうちょっと太ったほうがいいよ。うん」
懐は、急に真顔になって言った。

なんでそんなことを言うの?
青白くてガリガリのわたしを心配してる?
まさか。

色素に乏しいわたしの顔。その中で、目だけがグリグリ大きいわたしの顔を見つめて、懐は言った。

「おれの好み」
そして、ニヤっと笑った。
6月22日。
その日は、うだるような暑さだった。

しばらく続いていた雨が上がり、突然晴れた。
太陽がギラギラと、わたしを照らしていた。

学校からの帰り道。
極力日に当たりたくないわたしは、気温32度でも長袖Yシャツを着ていた。

暑い……。

額から汗が流れた。日焼け止めが落ちてしまう。
肌が弱いから、わたしの日焼け止めはSPF30なのに……。


中学生で過ごす、最後の夏が始まろうとしていた。
家には誰もいない。

わたしの親は、昔、離婚した。
いま、わたしは母と二人暮らしだ。

その母は仕事だ。どこでどんな仕事をしているかなんて、知らない。

わたしは、母を信頼していない。

近くに、信頼できる人は淑乃先生くらいだ。

そして、遠くにならもうひとりいる。
わたしのお兄ちゃん。

いまは、父と暮らしているはず。


でも、ずいぶん長い間会っていない。
父の家に行くのは、気が引けるからだ。きっと、お兄ちゃんもそうだろう。

最後に話したのは、中1の頃だったっけ?
それからは、お兄ちゃんが高校生になったせいもあって電話をかけていない。かかってもこない。