仕方ない。イスを使おう。
そう思って、後ろを向いた。
「うわっ」
目の前に、懐がいた。
いつからいたの?
「びっくりしたぁ」
「それはこっちのセリフだよ!」
わたしは自然に言い返していた。
それを見て、懐が笑っている。
「淑乃先生は?」
懐が、保健室を見回していった。
「用事」
わたしは、ぶっきらぼうに答えた。
なぜか、懐とは普通にしゃべれた。
気に喰わないやつだけど、もう怖くなかった。
それから懐は、わたしからポスターをひったくると、カレンダーの上に貼った。
「ありがと」
わたしはつぶやいた。
「でも、ちょっと曲がってる」
意地悪したくなって、文句を言ってみた。
「いーの!」
懐は背高いのに、発言が子供っぽい。
わたしは、そのギャップを考えると、なんだかくすぐったくなった。
おなかのあたりがむずむずして、落ち着かない。
だから、こっそり深呼吸をした。
今年の春。何かが、はじまる予感。
「あ~、腹減った」
懐が天井に向かって言った。
「今日の給食、何かなぁ」
次の瞬間、懐は献立カレンダーを覗き込んでいた。
「げっ。クラムチャウダーとイカリング!?
ご飯と野菜しか食うものないじゃん」
「嫌いなの?」
わたしは、訊いた。
「無理無理。おれ、貝とイカ嫌いー」
わたしは、思わず噴き出した。
「懐なのに……ぐふっ」
「あっ。それいっちゃだめでしょ」
くだらないことなのに、おかしくてしょうがない。
ツボにはまって、抜け出せない。
「そうだ!ちはる、ほっそいからおれの分あげる」
わたしの、骨と皮だけみたいな体を見て言った。
「そんな食べれるわけないじゃん」
もっともなことを言った。
「細すぎるモデルは、世界的にも人気ないんだよ」
「いや、モデルじゃありません」
「でも、もうちょっと太ったほうがいいよ。うん」
懐は、急に真顔になって言った。
なんでそんなことを言うの?
青白くてガリガリのわたしを心配してる?
まさか。
色素に乏しいわたしの顔。その中で、目だけがグリグリ大きいわたしの顔を見つめて、懐は言った。
「おれの好み」
そして、ニヤっと笑った。
6月22日。
その日は、うだるような暑さだった。
しばらく続いていた雨が上がり、突然晴れた。
太陽がギラギラと、わたしを照らしていた。
学校からの帰り道。
極力日に当たりたくないわたしは、気温32度でも長袖Yシャツを着ていた。
暑い……。
額から汗が流れた。日焼け止めが落ちてしまう。
肌が弱いから、わたしの日焼け止めはSPF30なのに……。
中学生で過ごす、最後の夏が始まろうとしていた。
家には誰もいない。
わたしの親は、昔、離婚した。
いま、わたしは母と二人暮らしだ。
その母は仕事だ。どこでどんな仕事をしているかなんて、知らない。
わたしは、母を信頼していない。
近くに、信頼できる人は淑乃先生くらいだ。
そして、遠くにならもうひとりいる。
わたしのお兄ちゃん。
いまは、父と暮らしているはず。
でも、ずいぶん長い間会っていない。
父の家に行くのは、気が引けるからだ。きっと、お兄ちゃんもそうだろう。
最後に話したのは、中1の頃だったっけ?
それからは、お兄ちゃんが高校生になったせいもあって電話をかけていない。かかってもこない。
そうだ、電話してみよう。
お兄ちゃんのことを思い出したのは、きっと何かの縁だ。
わたしが受話器に手を伸ばした時、突然電話が鳴った。
思わずびくっとしてしまった。そのせいか、心臓がドクドク鳴った。なんだか、胸のあたりがゾクゾクする。
「はい。佐々木です。どちら様ですか?」
少し声が震えてしまった。
いま、わたしは部屋の壁に体を預けて座っている。
やや上を向いて天井を眺めたまま、固まっている。
さっきの電話は父からだった。父の言葉を一字一句覚えるほど、余裕はなかった。
とにかく、父はこう言った。
――お兄ちゃんが交通事故に遭った――
もう、逝ってしまった。わたしをひとり、この息苦しい家に残したまま。
「お兄ちゃん……」
わたしのつぶやきは、誰にも聞かれることなく消えていった。
涙は出ない。泣くほどわたしは大人じゃない。
普通、「泣くほど子供じゃない」だけど、それは違うと思う。
あんまり悲しいことがあると、涙が出ない。ただ、心にぽっかり穴が開いて、頭がぼーっとするだけだ。
わたしはまだ子供で、現実を100%受け入れられていない。
でも、小さい子じゃないから、現実を「理解」することはできた。
14歳。大人になれず、でも子供でもいられない。中途半端。
いったい、わたしは何なんだろう?
頭がおかしくなってきた。
深夜、母が帰ってきた。
母はわたしの部屋に入ってくることもなく、いつも通りお風呂に入った。それから、いつも通りに寝室に入っていった。
どうして平気でいられるの?
父は、母にも連絡したと言っていた。
自分の子供じゃないから?
お兄ちゃんは父の子供だけど、母の子供ではない。
うちは、歪んだ家庭なのだ。
にしても、薄情だ。わたしは薄情な人の娘だから、薄情娘だ。