憎らしいくらいに、体があの感覚忘れていないことに気付かされる。
今だって、この耳は音のずれをすぐに察知してしまうんだ。
「チューニングもなってない。三弦がダメだ」
錫代はぽかんとした顔で俺の手元と顔を見ていたが、呆れて説明するのも面倒で黙って作業を続けた。
耳だけを頼りに三弦のペグをしめて、弦を弾く。
昔は自慢だったこの耳が、今じゃ恨めしい……。
「うわぁ、素敵!奏斗先輩、やっぱりかっこいいです」
突然、錫代が向けてきたのは爛々と輝く瞳。
よく表情のかわる奴だ――。
俺にはこんな目、見ていることもできない。
まっさらで夢に心躍らせる瞳。
胸が痛くなるだけだ――。
逃げるように視線をずらせば、テーブルの上に錫代が置いたギターの入門書があった。
「無駄な話はいい。それでコードを完璧に覚えろ」
「はっ、はい!」
あの瞳から逃れて俺は胸を撫で下ろす。
その刹那、聞こえてきた耳に馴染んだ音たちに心が震えた。
安心感のあるベースライン、パワフルなキーボード、それを引っ張るドラムのリズム。
そして、抜け落ちているのはギターの音色……。
ギターがないのに、個性はバラバラなのに、成り立ち重なる三つの音。
馴染みの音と言ったが、それは間違いだった。
時間が止まっているのは、いや、寧ろ後退しているのは俺だけで、三人の音は成長してる。
あの頃よりずっとこの部屋いっぱいに響いてる――。
……でも、もうこの音の中に、俺のギターも歌も、……星羅の笑い声も……存在しないんだ。
胸に大きな穴が開いたよう――。
一体その穴には何があったんだろう。
ただただ三人の音色が穴を擦り抜けていく。
――もう、俺は失ったモノすら、分からないんだ――。
――授業という束縛から一時的に解放される昼休み。
馬鹿騒ぎして思い切り羽を伸ばす者もいれば、愛想笑いしてグループという存在にしがみついてる者もいる。
あの日から目に入ってくるのは、そんなくだらないものばかり。
人生なんてつまらないものにみえて、その度生きることがなんなのか分からなくなる……。
俺はさっさと飯を済ますと、くだらない空間を抜け出した。
ずっとあの中にいたら、星羅の存在も記憶も同じ色に染まってしまいそうだったから――。
そして、俺は安息の場所へと歩を進める道すがら、雅臣の姿を目にした。
俺の二つ先のクラスにその姿はあった。
平均よりは低い背が輪の中心にいて、屈託なく笑ってる。
幼い頃と何ら変わらない笑い方。
俺の前じゃ、雅臣はあんな笑い方もうしない。
俺だって同じだ……。
俺は笑うことすらできないけど。
その瞬間、雅臣と視線が交わった。
軽蔑するような瞳を向けられ、俺は黙ってその場を去る。
……昔はこんなんじゃなかったのにな。
幼い頃の俺等には絶対想像できないことだろう。
だって、雅臣はかけがえのない親友だったのだから――。
確かに昔だって、喧嘩して口をきかない日だってあった。
でも、その分一番腹割って話せるのは雅臣だったんだ。
ぶっきらぼうで負けず嫌いで、だけど、誰より情にあつい奴――。
なのにあの日、その絆は壊れた。
いや、俺が壊した……。
仲間思いの雅臣を失望させるような真似をしたのは、俺自身。
雅臣が怒るのは当然のこと……。
でも、俺と雅臣は正反対の人間なんだ。
雅臣は文句の付けようがないくらい真っ直ぐで強い。
――だけど、みんながそうはなれないんだよ。
……俺は雅臣みたいに強い人間じゃねぇんだよ……。
―――――――
――――
あの日から何度この戸の前に立っただろう。
まだ温もりが残っているんじゃないかと信じたくて、そっと指先で壊れ物のように触れてみる。
――しかし、感じるのはいつもひんやりとした冷たさ。
そう、これも分かってることだ……。
だけど、それでもここにくるのは、少しでも星羅を感じていたいから――。
他人は愚かだと笑うだろう、いつまでも空想のような世界に浸っていることを。
でも、俺には必要な時間で、失いたくない空間なんだ。
俺は扉を開け放つと、その空間へと足を踏み入れた――。
足を踏み入れれば、そこは“本の森”。
印刷された本の独特な香りと、少しの埃っぽさ。
ここは、ここだけは、時間が止まったように、あの頃と変わらないでいてくれる。
星羅が好きだった場所の一つ、“本の森”と呼んでいた場所――。
窓から差し込む暖かなひだまり。
数々の本という木々は照らされ、星羅がいつも使っていた椅子とテーブルを輝かせる。
今なら幻でも見えそうだ――。
あの日々が思い起こされるように、
あの日々の星羅が今、目の前にいるように……。
小さな体が窓際に座り、白いしなやかな腕が動いて綺麗にページを捲る。
栗色の艶のある髪はひだまりに包まれて、お伽話から出てきたお姫様のように金色に輝く。
そして、読み耽っていた本から顔を上げると、俺に気付いて顔をくしゃっとさせて笑うんだ。
弾けるようなとびきりの笑顔で――。
……でも、これはあくまで幻想だ。
その愛おしい幻想は、音もなく泡のように一瞬で消えてゆく。
だけど、それでもいいんだ。
ここには、星羅との記憶の断片が散らばっている場所だから。
切なくても、星羅といられるなら、俺はそれでいい。