一歌はどうせ分かっていないだろうと思いながらも、擦れ違うタレントや俳優に頭を下げた。


これもこの世界の常識だ。


常識ばかりが身につく一方で、一向に混じることの出来ない世界。


一階へと向かうエレベーターの中も、知った顔ばかりだった。


飲料水のCMに出ているアイドル、最近人気が出てきた若手俳優、レギュラー番組をいくつも持つ芸人。


自分だけが違う世界にいるような感覚。


最初の頃は歌っているだけで十分だったはずだ。


だけど、今はそれだけでは駄目だった。


多くの人に認めてもらいたい。


もっと多くの人に自分の歌を聴いて欲しい。


一歌の心はいつもそのことで占めらていた。


物足りない感覚が、いつも心を占める。


チン、という甲高い音を立ててエレベーターは到着を告げた。


一歌は笹原とともに、吐き出されるようにして、外に出た。


ここにいるのは、時間に追われているような人ばかりだ。


スタッフにしろ、タレントにしろ、一分一秒が惜しいような人達。


そんな中、一歌だけはゆっくりとした足取りで出口へと向かった。


次にテレビの仕事があるのはいつだろう。


一歌はそんな事を思いながら、名残を惜しむようにロビーを歩いた。


その瞬間、何者かが一歌の腕を思い切り掴んだ。


「痛っ……」


一歌がそう声を出すと同時に、掴まれた腕はぐん、と引っ張られた。


「一歌さん?」


それに気づいた笹原が足を止め、振り返った。