「やったな、一歌」


翌日、浮かない気分のまま事務所に顔を出した一歌に、社長の柴田が飛び付かんばかりの勢いで近寄ってきた。


「はい?」


一歌は夕べ泣き過ぎて腫れぼったい瞼を少しだけ動かし、怪訝な表情を作った。


柴田は一歌のそんな様子に気付かずに、にこにことしながら、一歌の肩を揺すっている。


一歌はさっぱり意味が分からずに、肩の痛みをだけを感じた。


「ちょ、社長、離して下さい」


一歌はやっとの思いで、柴田の手から逃れた。


肩にはまだ掴まれた感触がはっきりと残っている。


「浅田修二主演ドラマの主題歌なんて、売れることが約束されたようなものだなっ」


柴田はにこにことした表情を崩さずに言った。


「浅田修二主演ドラマの……。はいっ?」


一歌は裏返った変な声を出した。


昨日のことは忘れよう。


朝起きた時に、はっきりと決めた矢先、こんな話が飛び込んできたのだ。


「そうだそうだ。驚くのも無理ないな。いや、しかし、見てる人は見てるんだな。一歌はいい素材だもんな」


柴田は一人で納得したように頷いている。


中年とはいえ、柴田は割りとかっこいい見た目をしている。


だが、一度口を開けばこの調子で、折角の外見が台無しになってしまう男だった。


一歌はこの事務所に入ってから、幾度となくそう思っていた。


だが、今はそんなことを考えている場合ではない。


一歌は夕べの修二とのやり取りを思い出した。


忘れると決めたが、そんなことを言っていられない状況だ。


まさか、本気だとは思っていなかったが。


いや、あの場では、井口まで紹介してきたのだから、本気だったのだろう。