どれほどの時が経ったか?
「兵吾や、時間じゃ。立てぃ」
兵吾の旅立ちの時がきた。
兵吾は背中を丸めたまま立ち上がる。
農業に勤しんでいた、その面影はまるでない。
「兵吾や、背を丸めるな、胸をはれ!おまえは作物を育て、しいては人の命を育てていたのじゃ。きっと皆がおまえの育てた作物をうまいうまいと言いながら食っていたのじゃ。犬や猫も人がうまそうに食う姿を見て、きっとおまえの育てた物を食わせろとせがんでおったに違いない。ならば胸をはれ、その人生を誇れ!」
旅立つ男に叱咤激励を手土産に渡す。
辛いだろうが兵吾はなんとか晴れやかに見える笑顔を見せる。
それで良い。
「三途まで案内しよう。ついてまいれ」
「はい」
連れて行った先は、兵吾がいつも釣りをしていた川。あの山女を釣り上げた川。ここら一帯の田畑に命の水を育む川。
河川整備がされ堤防ができ、工業用水が流れ込み、昔の野花が咲き清流が流れる思い出の川ではなくなっている。
「どう見える?」
兵吾に問う。
兵吾は驚きの表情を見せていた。
「あ・・あ・・・綺麗な、綺麗な、まるで子供の頃に遊んでいたような・・・」
川辺には名もなき花が咲き誇り、日の光を反射する清流。兵吾の目にはそう映ったのだろう。
サクラから笑みが零れる。
三途が美しく見えたのならば、兵吾は善人であり、悲壮な最期を遂げたとはいえその命は満たされるに値する人生であったということ。
「そうか。なら良い。逝け兵吾。たっしゃでな」
春風になびく長い黒髪と揺れる歪な巫女装束。
サクラは三途を渡る兵吾の背中を瞬きもせず見送る。
兵吾は川を渡り、サクラに振り返ると一礼して、そしてその姿を消した。
「たっしゃでな・・・」
声は春風に連れ去られた。