「いちご。もうすぐだよ」

男が言った。
長身で、長髪。整った顔にメガネをかけたその男。
言葉は、いまその男と手を繋いでいる人物にかけられた。
幼い少女だった。
少女は、誰から見ても愛らしい顔をしていた。しかし、その顔には表情がなく、その口は固く閉ざされていた。


「ここが、これから君と僕が暮らす街だ」
 
真夏。
時刻は夜10時頃。
夜だというのに昼間の気温を完璧に引きずっているような蒸し暑さの中、青年は歩いていた。

長めの黒髪。
線の細い顔つき。
そこにけだるそうな表情を浮かべて、青年は歩く。

バイトが終わり、今やっとマンションに帰ろうとしているところだ。
都心から少し離れただけにも関わらずどこか田舎くさいこの街を青年は気に入っている。

やる気の見られない足どりで歩いていた青年の足は、マンション手前で止まった。
女の興奮した声が聞こえてきたからだ。
見ると、男女の喧嘩のようで(と言っても、女が一方的に怒っているようだが)青年はその男のほうの顔を確認してため息をついた。
やがて、バチーンッ
と言う威勢のいい音の後に青年のいる方向に憤慨した女が歩いて来たので青年は目をそらしてやり過ごした。

女が見えなくなってから、青年は男のほうに歩みよった。

「またか。太一(たいち)」
青年に太一と呼ばれた男はまだ若く、青年と同い年かそれより若いくらいに見える。
青年よりも長いうねりのある茶髪に、幼いような愛嬌のある顔付き。今は、その頬が赤く腫れているが。

「よぉ、ヒロ」

太一はへらっと力なく笑って頬を押さえた。
太一にヒロと呼ばれた青年は呆れたように大きなため息をつくと、

「…とりあえず、飲むか?」

持っていたコンビニの袋から缶ビールを取り出してゆらした。
太一はニッと嬉しそうに笑った。

二人は同じマンションに入っていった。
 
岡島 浩之(おかじま ひろゆき)と二宮 太一(にのみや たいち)は同じ美大に通っている。
目指すものこそ違えど、入学当初からの付き合いだ。
また、同じマンションに住んでいて、太一の住む一階の部屋の真上がヒロの部屋なので、お互いよく行き来している。

太一は、女性にモテる。
だがそれゆえに女遊びが激しく、今回のようなことはヒロが知るかぎりでも初めてではない。
女性と遊んでも特定の彼女を作らない太一の姿勢にも問題があるのかもしれない。
ヒロも少し前までは太一と同じくらい女遊びが激しかった。
それこそ太一とヒロが共に街に出て女性に声をかければ確実に女性がついてくるほどであった。
二人とも、外見はよいし、太一は口が達者なのでナンパは本当にプロ並だ。
しかし、ヒロはここ最近はそうして街に出ることもなくなっていた。
その理由はヒロは口にしないが太一にもしっかりわかっていたので、太一もヒロを誘わなくなった。

ヒロの部屋。
家具は必要最低限しか置いておらず、二つあるうち一つの部屋には画材やら何やらで埋まっていた。

二人はもうひとつの部屋で缶ビール片手に話していた。
 
「いってぇなぁ」

頬をさすりながら太一が呟く。
それを見てヒロが笑った。

「気の強い女だったなぁ。なに、付き合ってたの?」

「まさかぁ。付き合う気はないって事前から言ってあったのに、あっちから自滅してったんだよ」

はぁーあと深くため息。
深いことはわからないが、いつまでも煮え切らない太一の態度に我慢ならなかったのだろう。
太一の性格もわかるが、女が可哀相な気もする。
ヒロは呆れたように太一に言った。

「そろそろ真面目に彼女作ったらどうだ?」

「んー…もう長いこと真面目な恋愛してないからなぁ。今のが楽でいいよ」

「そうかよ」

「誰かさんみたいに、その人に片思いするために女遊びやめれるくらい好きな人作りたいっすねー」

からかうようにヒロを見つめて太一が言った。
ヒロは軽く睨んでそれを受け流した。

それからしばらく、二人は談笑していたが…

ガタンガタンッ
と隣の部屋から物音がして二人の会話は止まった。
隣の部屋は空室。
物音などするはずはないのだが…
二人は顔を見合わせた。
ピンポーン
気のぬけたチャイムが鳴る。
先程響いた隣の部屋からの物音のこともあり、二人は顔を見合わせる。
時刻は11時半を回ったところだった。

「はい」

ヒロがドアを開けた。
しかし、ドアの先には誰もいない。なんなのかとドアを閉めようとした、すると自分の着ていたTシャツを引っ張られる感覚。
下を見ると、

「…は?」

思わずあげた気のぬけた声に、太一が寄ってくる。

「子供じゃん!」

太一も驚きの声をあげる。
そこにいたのは、幼い少女。
栗色の髪を二つに結って、大きなクリクリした瞳でこちらを見つめている。
このマンションにはヒロと太一の他にも何人かの住人がいたが、こんな少女は見たことがなかった。

「ど、どうしたの?」