「前髪が変な形だ」
 疾走でオールバックに固まってしまった髪を気にしながら、開口一番に隼人はそう呟いた。自転車から降ろされ、荷物を担ぎ直しながら澄香は小さく苦笑を浮かべる。
「別に誰も見やしないでしょ」
「お前も、人のこと言えない」
「どうせ誰が見るわけでもないから」
「……少しくらい気にしろよ。女だろ。一応」
 呆れたように言ってくる副部長の横顔に、はっきりとした微苦笑が浮かんでいるのを、目敏く澄香は見逃さなかった。それを隠すためだろう。隼人はすぐに愛車のハンドルを返し改めてサドルに跨った。つと肩越しに振り返り、片手を上げて短く告げてくる。
「……それじゃあまた明日、な」
「待って、隼人」
 彼がペダルを踏むより先に、澄香は声を上げた。そのまま、続けて訊ねる。
「今年の夏は、暑くなるかな?」
 前の会話とは何の脈絡もない、素っ頓狂な問いかけだっただろう。隼人は怪訝に眉根を寄せて蒼天を仰いでいたが、やがて頷くと、すぐにこちらに向き直ってきた。深く澄んだ声で、静かに言葉を返してくる。
「……多分。きっと。熱い夏になる」
 それだけ告げて、彼はさっさとその場から立ち去って行った。白いシャツを翻らせ、両手を離して愛車を操りながら颯爽と駆け去っていく。その後背が完全に見えなくなってから、澄香もまた駅舎に向けて踵を返した。
 ホームに上り、はねた髪を整えながら、二十分に一本しかないローカル電車を待つ。
 単線のホームを渡る風を、横顔に受ける。南風に遊んだ黒髪は、先刻別れた少年と同じ、夏の香りがした。


                           (終)