「ちゃんとつかまれ。落ちても拾わないから」
 気怠げながら近距離でそう囁かれ、赤面しながら離しかけていた手を戻す。
「行くよ」
 小さく頷き返すと、隼人は短く息吹いて大きくペダルを踏み込んだ。慣れないからだろう──ハンドルを小刻みに左右に振られながら、段々とペダルの回転数を上げて走行を安定させていく。
 中学校の最寄り駅は、滑らかな下り坂を徒歩で五分程下ったところにある。登校時は──特に出席と遅刻の境界を走っている時には──厄介なことこの上ないが、帰途では全力疾走してもさほど苦にはならずむしろ心地よい。その道を、一台の自転車で颯爽と通り過ぎていく。 
 右手には、青空に映える緑色の高いネットに囲まれたゴルフ場。左手には、涼香を漂わせる瑞々しい雑木林。見慣れた景色の中を駆け下りていく。
 夏の日差しの中、濡れた髪を玩び飛びすさっていく風が冷たく爽快だった。
 初めて自転車に乗った時の感覚。それに似ている。次の瞬間に転びはしないかという恐怖。風になったと錯覚するほどの解放感と爽快感。それらすべてが渾然となって、澄香の目を、意識を、心を、体を魅了する。
 そこで、彼女はふと別のことに気付いた。
 風に乗って、隼人の身から漂う塩素の臭いが緩やかに鼻孔をくすぐった。湿った木々の匂い、遅い昼食の調理香、近所の牛舎の臭い。それらよりもずっと明瞭に嗅ぎ分けられる、慣れた夏の匂い。
 二十五メートルしかない、長方形の青い海の匂いだった。滑らかな水面を渡る風は、潮の香ではなく塩素の臭いがする。この日この時、自分達が確かに同じ場所にいたということを証してくれる、夏の香り。
(夏の間だけ、私達は同じ匂いがする)
 それは、今こうして同じ風に吹かれていなければ気づけなかったことだろう。彼方の風が隼人の身を撫で、澄香の鼻孔をくすぐり、二人の同じ香を孕んで再び天空に戻るまで。この冴えた夏空の下、使い古したシルバーの自転車で、二人乗りをしてこの坂道を下るまで。きっと気づけなかった些細なこと。
(気づけて、良かった)
 澄香は胸中で呟いた。最後の夏になる。それが終わってしまう前に、気づけて良かった。 風に魅せられ、その抱擁を堪能しながら。
 顔を上げると、色褪せた灰緑の駅舎の屋根が見えてきていた。