頬に落ちる、幾粒もの母の涙。


つつう、と頬を滑り落ちて行った。


世界が一変した。


静止していた現実の世界が、一気に動き出す。


遠くに、サイレンの音が木霊している。


「来たど! 救急車が来た!」


「いがったあー。早ぐ、早ぐ、誰かこっちさ誘導せえ」


近所のひとたちがこぞって動き出す。


「翠っ……しっかりしな。今、救急車で病院行くかんな。長谷部先生に看てもらお」


大丈夫、その母の声を聞いた時。


サアアッ……。


微かにざわめく風の音。


静止していたこの白い世界に、雪を含む風に流れが生まれた。


ふと、体が軽くなった。


風船でもないのに、ふわん、と体から力が抜けて行く。


肌に突き刺さる真冬の冷たさ。


びりびりした。


冬空いっぱいに広がっていた曇天色の雲が右へ左へ、はけて行く。


雲の切れ間から差す光の筋が地上を照らし、輝かせる。


あの光に触れる事はできないのだろうか。


必死に、ただひたむきに手を伸ばしてみる。


しかし、何かを掴めるわけでもなく、何かに触れる事すらできずに、手は虚しく空を切る。


その、瞬間。


あたしは、すぐそこに、彼の横顔を見た。


優しくて、物静かな雰囲気がたっぷりの、あの横顔。


何かを、真っ直ぐ、そっと見守るような、やわらかな瞳を。


あの春の日に見た、彼の横顔だった。


補欠……。


ごめんね。


もう少しだけ、待っていて。


あたし、もうすぐ、行くから。