名字も持たぬとは…。
ならばこの男は武家の人間ではないのか?
視線を外さぬまま、椿は思案を巡らせる。
武家ならばどのような下級だろうと、幕府が志士に属する筈。
いや、身分に関わらず隊に属している奇兵隊のような例もある。
しかしこのシイという男はどちらにも属さぬという。
「一体貴様は何者なのだ…?」
「質問ばっかりだな」
ウンザリといった表情で遠ざかりながら。
「お前と一緒だよ、娘さん」
シイは背を向けたまま答えた。
「人を殺める者だ」
「ふざけるなっ!」
椿は激昂する。
彼女は同じ長州派の同胞を守る為に刀を振るっているのだ。
決して見境無しに斬っている訳では…。
「人殺しに綺麗も汚ねぇもあるかよ」
肩越しに椿を見るシイ。
その顔に、邪な笑みが浮かんだ。
これまでの薄笑みとは明らかに違う。
底の見えぬ井戸を覗き込んだ時のような、言い知れぬ悪寒が椿を襲った。
「五人も十人も人の命を奪った…てめぇも俺と変わらねぇ…鬼で、修羅で、獣だ…」
獣のような男、シイとの邂逅。
この日を境に、椿は日本の行く末とはまた別の、激しい動乱へと巻き込まれていく…。
その夜から椿は山荒を探す為の行動に入っていた。
といっても相手は恐らく人外。
幕府方の侍ならばある程度行動は予測できるが、人間ですらない山荒を探すなど、手掛かりすらあろう筈がない。
椿にできる事といえば、虱潰しに京の入り組んだ路地を探し回る事くらいだった。
…夜が現代よりももっと濃く深かった時代。
深夜ともなれば灯り一つなくなり、雲が月や星を隠せば、完全なる暗闇が訪れる。
闇の中に何が潜んでいようが不思議ではない、漆黒の夜。
不用意に出歩く事さえ憚られるほどの、身震いするような夜だった。
いつでも抜刀できるように、片手を刀の柄にかけたまま歩く。
路地の陰から、闇の中から、背後から。
いつ何時、何者が襲い掛かってきても不思議ではない。
それこそ人ならざるもの…山荒のような人外が襲ってきたとしても、納得できてしまえそうだ。
人斬りなどという人間を殺める役目を負っていると、時折思うのだ。
こうして自分が斬った者の命は、成仏できぬままこの京の街に漂っているのではないか。
怨念を残したまま街を彷徨い、やがてこの京都はこの世とあの世の境目が曖昧になっていくのではないか。
この街が時に『魔都』などと称されるのは、自分のような人斬りが数多の人間を殺めたせいなのではないだろうかと。
この京の街は、魔界という名の異界と繋がっているのではないかと…。
そんなおどろおどろしい事を考えていたせいか。
「っ…誰だ!」
背後で微かに砂利を踏み締める音がして、椿は過剰に反応してしまった。
神経が張り詰めていたせいで、必要以上に大きな声で威嚇してしまう。
…確かに誰かいる。
闇に乗じて椿の背後に接近しようとした誰かが。
「……」
愛染虎壱を鍔元一寸ばかり抜く。
チキッ、と微かに刀の音。
その音だけで、闇に潜んでいる相手に対する威嚇になる。
『出てこなければこちらから仕掛ける』
そういう意思表示だった。
その威嚇に恐れ戦いたのかどうかは定かではないが。
「涼しい顔して気が短い…そういうとこは沖田そっくりだぜ…」
闇の中から一人の男が姿を現した。
浅葱色に段だら模様の羽織を着ていない。
大勢の部下を引き連れていない。
しかしそれは、確かに椿が対峙した事のある相手だった。
「新撰組八番隊組長…藤堂 平助…!」
「元…な」
驚愕の表情を見せる椿の前で、平助は不敵な笑みを浮かべた。
「お前は一年前に油小路で死んだと聞いていた…」
「ああ。そういう事にしといたのさ。死んだって事にしとけば何かと動きやすい。こう見えて俺は売れ者なんでな。面が割れててやりづれぇのさ」
何食わぬ顔をして言ってのける平助。
死んだ筈の者が、生きてひょっこり顔を出す。
幕末の動乱の中では、それ程珍しい話ではなかった。
「死んだと見せかけておいて油断を誘う気か…あざとい真似をするのだな、新撰組八番隊組長ともあろう男が…」
すかさず居合いの構えを取る椿。
「早合点するんじゃねぇよ」
平助は両手を上げて抵抗の意思がない事を示す。
「俺ぁ『死んだ事』になった瞬間から、もう壬生狼じゃねぇ。新撰組からは籍を抜いたんだ。尤も、敵前逃亡は士道不覚悟…新撰組から籍を抜くには、どの道死ぬしかなかった訳だがな」
「……」
尚も居合いの構えを解かない椿に対し、平助は駄目押しの一言を追加した。
「俺ぁもう新撰組八番隊組長じゃねぇ。只の『藤堂 平助』だ」
平助の発言の真意はともかく、彼が斬りかかってくる気配はない。
とりあえず椿は刀から手を放す。
「しかし何だな」
腕を組み、顎の無精髭を撫でながら平助はニッと笑う。
「『長州派の沖田 総司』とはよく言ったもんだ。その短気ぶりといい、生真面目な所といい、お前は本当に沖田に似ている。剣腕はどうか知らんがな」
「試してみるか?」
せっかくおさめかけた怒気を、椿は抜刀して刺突の構えを取る事で再び露わにする。
「落ち着けって。全く…得手まで刺突技かよ…ますます沖田そっくりだな」
椿の気の短さに辟易といった様子で、平助は溜息をついた。