まともに対峙したのでは、流石にうろたえるしかあるまい。
しかし幸か不幸か、その獣は新撰組の面々にのみ意識を向けていた。
それ以外には興味すら示していない。
そう、窮地に追い詰められていた平助になど、見向きもしない。
これは好機であった。
獣の毛針に狼狽し、逃げ回る新撰組隊士を掻き分け掻き分け、平助は油小路からの逃亡を図る。
ここでかつての仲間達に討たれ、討ち死にも覚悟の上だった。
だが好機が巡って来たならば話は別。
絶好の機が目の前にぶら下がっていながら見て見ぬふりをするほど、平助は愚かな男ではない。
何より…。
振り返り、あの新撰組の猛者どもを向こうに回して暴れまわる獣の姿を見る。
見るといってもこの暗闇だ。
はっきりと見て取れた訳ではないが…。
(化け物…一つ借りだな…)
血に塗れた魔都、京都。
この都に蠢くのは血に餓えた人斬り鬼や修羅だけではない。
本当の人外までもが跋扈しているのだ。
(この拾った命と引き替えに、必ずお前の正体突き止めてやるぜ、化け物…!)
心の中で呟きながら、平助は命からがら油小路の危機を脱するのであった。
慶応四年(1868年)。
動乱の趨勢は、ほぼ維新志士側に傾きつつあった。
戊辰戦争が始まり、圧倒的な戦力を誇る維新志士によって、幕府軍は北へ北へと追いやられていく。
京都に残るのは志士側の勢力と、逃げ遅れた幕府側の一部のみ。
志士達が幕府の残党を狩り、幕府側は志士達の追っ手に脅えながら暗がりに忍んで暮らす、そんな日々。
…そんな中、椿は一軒の店に足を運んでいた。
『大萩屋』
長州藩の志士が京都の潜伏先として使っている小料理屋である。
「失礼致します」
店の引き戸を開け、椿は店内に入る。
「高遠 椿、呼び出しに応じて参りました」
「おお、よぅ来たのぅ。無事にやっとるか?」
店内の座敷で茶を啜っていた同じ長州派の志士の男が言う。
備後国(現在の広島県の概ね東半分)出身らしく、訛りがあった。
生憎と椿は雑談しに来た訳ではないし、性格上無駄口もあまり叩かない。
「私を呼び出したご用件とは?」
「可愛げのない娘御じゃのぅ、愛想笑いくらい見せりゃあえかろうに」
苦笑いしつつ、男は椿を大萩屋の奥へと案内する。
…普通の客は入る事のない、大萩屋の奥座敷。
襖の向こうに人の気配があるのを、椿は人斬りの職業柄敏感に感じ取っていた。
「高遠が来ましたんで連れて来ました」
「通してくれ」
襖の向こうから声が聞こえる。
落ち着いた、理知的な感じのする声。
決して威圧的なものではないのだが、椿はその声だけで身が引き締まるような感覚を覚えた。
「失礼します」
襖を開けると。
「呼び立ててすまなかった」
そこには一人の男が座していた。
長州派維新志士。
椿は裏方役の人斬りという長州派の末端だが、それでも目の前に座るこの男の名前は知っている。
何しろ長州派の事実上の頂点なのだから。
桂 小五郎。
後の『維新三傑』として西郷 隆盛、大久保 利通らと並び称され、幕末から明治時代初期に活躍した武士にして政治家。
明治に入ってからは『木戸 孝允』と改名し、幕末から明治にかけての混乱期にあった日本を立て直す為に尽力した。
聡明でありながら剣術の腕も立ち、神道無念流免許皆伝としても有名。
生涯で剣の勝負に負けたのは、坂本 龍馬ただ一人だけという強さも誇る。
そんな長州派の巨頭が、一介の人斬りに過ぎない椿に何の用なのか。
まさか桂が待っているとは思いもしなかった椿は、立ち尽くしたまま硬直してしまう。
「そんなに硬くならなくてもいい」
微かに微笑み、桂は目の前の座布団を指す。
「座りたまえ高遠君。楽にするといい」
「はっ…し、失礼致します」
帯びた愛刀を脇に置いて、椿はギクシャクと桂の前に座った。
…互い向き合ったまま。
桂は湯呑みの玉露を音もなく一口飲む。
無論椿は緊張のあまり、茶を飲む余裕などない。
しばし間を置いて。
「腕が立つそうだね、高遠君」
桂が穏やかな声で言う。
「いっ、いえっ…」
硬い表情のまま椿が答える。
「神道無念流の桂様に比べれば、私の剣など児戯のようなもので…」
「そのように卑下しなくともいい」
桂は再び優しげな笑みを浮かべる。
「君の剣腕によって、多くの長州派の同胞が幕府から命を救われた。新撰組や京都見廻組から、何度も助けられたと聞いている…同様に君のようなうら若き乙女に、人斬りなどという汚れ仕事を強いてしまった…その事は、本当に申し訳なく思っている」
座り直し、桂は末端の人斬りである椿に対して深々と頭を下げた。
「どうか許してくれ。この通りだ」
「かっ、桂様っ!」
椿は慌てる。
「よ、止して下さい!桂様のようなこれからの日本を背負って立つような方が、私のようなたかが人斬り如きに!頭を上げてください!」
アタフタして狼狽する椿の言葉を聞いて、ようやく桂は頭を上げた。
「それで…今回高遠君をこの場に呼び出したのは…申し訳ないのだが、またも人斬り働きを頼みたいのだ。君のような腕利きの剣客にしか出来ない任務…君の天然理心流の腕前を借りたい…」
桂は神妙な顔をして椿を見つめた。
「正確には、斬るのは人ではないのだが…」
人斬りの仕事。
任務の話となって、椿から先程までの狼狽ぶりが消える。
任務に対しては真摯に、そして知らぬ者が見れば身震いするほどに、椿は研ぎ澄まされた表情を見せる。
まだ二十一という年齢ながら、椿は超一流の剣客であった。
若輩ながら、人斬りの際には手練の侍でさえも怯むほどの凄味を見せ付ける。
その凄味に桂さえもやや圧倒されながら。
「ここ数ヶ月、京で長州派の同胞が次々と殺られている」
背筋を伸ばしたまま、桂は真っ直ぐに椿を見て言った。
「殺られたのは片手で足りる数ではない…」
「相当な使い手ですね。新撰組辺りでしょうか。一番隊組長の沖田 総司などは手強いと聞きます。私は直接相対した事はありませんが…」
椿の言葉に、桂は緩々と首を横に振った。
「いや…沖田 総司は先日他界した。労咳だったと聞いている」
確かに慶応四年五月三十日、沖田 総司は肺結核により亡くなっている。
「それに殺られたのは志士だけではなく、幕軍の兵もだ。僅かに京に潜伏している幕府方の者達も、次々と殺害されているらしい」