奏天楼の執務房は沈黙に包まれており、並大抵の事には動じない朗世でさえも、これはおかしいと思わざるを得なかった。

 主碩有はいつも通りに椅子に座って、尚且ついつも通りに仕事をこなしている。表情も仕草も声音一つも、全てに特に表立った変化は見られない。山積みになった地方領土についての洛庁からの書類を、正確迅速に処理していく。

 だだ広い室内には、主と朗世の二人きりであった。他には壁際に置かれた獅子や龍を象った彫像や、座る者のない黒檀の長椅子がいくつかといった、人でないものばかり。つい先ほどまでいた部下達も、用事もないと退出させてしまっていた。

 それにしても、訪れる者がこぞって後に「御館様は何かあったのですか」と自分に聞いて来るのはどういうわけか。

「御館様」

「何だ」

「そろそろ一休みされてはいかがでしょう」

「何を言う。ついさっき昼餉(ひるげ)を摂ったばかりではないか」

 言いながらも、彼の視線は書類から上がりもしない。

 隣の卓に向かって玉印を押された書類をまとめる手を止め、朗世は軽く息を吐いた。

「もう夕餉の時刻になりますが。一休みというよりは、終了なさっても良いくらいのお時間です」

 碩有はすぐには返事をしなかった。

 数十箇所ある陶家の領地の細かな手続きの書類に、この青年領主は全ていちいち目を通している。

 その日に来た全てを処理するのはどだい無理というもの、いつもなら時間を区切って仕事を終わらせているのだ──夫人との夕餉に必ず間に合う様に。

 朗世は邸全てに独自の情報網を持っており、当然六天楼にて主が夫人と仲違いしたのも知っていた。それが結婚以来初めてのものであろう事も。

 けれど私事については彼自身あまり関わりがないので、ここ数日取り憑かれたごとく働き続ける碩有に、諫言するのは正直面倒だと避けていたのだが──

「あまり無理をなさるとお身体を壊しますよ。気晴らしに何かされるなどして、そう根をお詰めになりませんよう」