変わらない日常が退屈だという思いは何処へ消えたのだろうか。
変わらずにあり続けたこの校舎に感謝し始めた。
教育実習で母校に帰る傾向が強い理由の一つはこれかもしれない。
歩みの速度が落ちる。
速く歩いたら、丁寧に感謝出来ないようだ。
あたしは廊下から階段に移る。
やはりここも変わらない。
練習に励む吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。
全てが懐かしい。
その中に違う音が交じる。
誰かの足音だ。
「馬場さん、」
あたしは声を掛けていた。
下を向いてた馬場さんが顔を上げた。
「滝沢先生…」
そこにいたのは普段の馬場さんではなかった。
今日は笑顔で挨拶してくれない。
「忘れ物?」
「あ、はい…。」
明らかに様子が違う。
先程の哀愁も消え、変わってしまった彼女に不安になった。
今にも消えてしまいそうな危うさを身に纏っていた。
「さようなら。」
馬場さんはまた俯いて歩き始める。
あたしと同じ段まで登ると、ピタリと足を止めた。
「滝沢先生、世の中奇跡って起こると思いますか?」
あたしの返事を聞かずに、馬場さんは話し続ける。
「あたしは無い気がします。
信じたいけど、人の精神を安定させる為の迷信みたいなものかなって…」
馬場さんは力なく微笑もうとしていた。
でも笑えてなかった。
「滝沢先生は?」
「あたしは…」
あるのだろうか。
考えてみた。
少し間を空け、あたしは言った。
「分からない。
偶然は必然って言うし、必然は偶然とも言うし。」
「そう…ですよね。
足止めしてすいません。」
馬場さんはまた歩き始めた。
階段を登るその姿はやはり危うく見えた。
馬場さんが見えなくなってから気が付いた。
さようなら、と挨拶するのを忘れてしまった。
変わっていない校舎に、変わった二人。
少し歪だったかもしれない。
小さな嘘をついたつもりだった。
だってあの時はまだ担任でもなんでもなかったじゃない。
一人の先生に嘘を言っても問題ないはずだった。
そりゃあたしだって、既にバレているか否かぐらい判断出来るよ。
ただ認めたくないだけ。
認めたら傍に寄れなくなるもん。
せっかく、せっかく一緒にいられる時間があるんだ。
きっと神様が与えてくれた貴重で夢のような時間。
卒業したらもう二度と見れない幻だろう。
それでもいいの。
悉くフラれるクラスメートを見ていたら、北条先生が教え子と付き合う気がないのだと分かる。
今彼女がいるのか、それとも忘れられない人がいるのか、理由は分からない。
だが、あたしが今告白したとしても勝算は皆無だ。
それなら今想いを告げて気まずい思いを―少なくともあたしが―するのは嫌だ。
もどかしい時もあるが、そこは感情的な理性が抑えつけていた。
じれったさが心労となり、滝沢先生に色々と吐露してしまったが、きっと問題ない。
滝沢先生は信用出来る。
それに幸いにも、父親が転勤族の為にこの学校に知り合いはいなかった。
今までに色んな所に住んだ。
記憶にあるのを順番に並べると、千葉、オーストラリア、福岡、愛知…そして東京だ。
愛知の人も東京の人も、あたしが帰国子女であるなんて知らない。
ヤンキー系の人達って怖いから、珍しい経歴だけで目をつけられたらたまったもんじゃない。
そういうわけで、学校にも極力隠してほしいと頼んだ。
尤も、この高校にヤンキー系の人などいないのだが。
それでも嘘をついたから、隠す為に誰にも言わなかった。
だから愛知も東京も、同級生が知ってるわけないんだ。
なのに…
何故あの男は知っているの?
喋らないとは言ったが、信用出来ない。
あたしはこの学校に通う全ての人に、英語が苦手だと嘘をついているんだ。
バレるとなったら、学校にいられなくなるかもしれない。
あたしの最大の弱みを握った男、磐井佑喜。
彼の目的はなんだろう?
あの男はあたしに何も要求しなかった。
滝沢先生とのこと、協力しろって言うのかと思ったが、お互いに頑張ろうと言っただけだ。
そりゃ、協力しろという意味にも取れるが、あの言い方なら無視も出来る。
謎だらけだ。
真意も情報源も何もかも。
情報源…
あたしは一つの可能性に気付いたが、すぐに捨てた。
あまりにも現実離れしている。
あたしは溜め息をついた。
ただ北条先生が好きなだけなのに…
胸が苦しい。
叶わぬ想い、ついた嘘、隠す為の努力、バレた時の恐怖。
最初は一枚だった苦悩が、いつの間にか幾重にもなっていた。
疲れた。
本音だった。
本当は英語好き。
リスニングもリーディングも英作文も、分からない問題なんてあんまりないよ。
でもそんな主張さえもう出来ないから。
逃げたいよ、こんなの。
でも逃げたくない。
逃げたら北条先生に会えないもん。
午前中しか授業がない学校は、まだお昼なのに人が少ない。
教室に入っても男子が二人いるだけだ。
「馬場さん!
俺らもう帰るけど、鍵頼んでいい?」
「いいよ。」
「ありがとう。
宜しく!」
二人は行ってしまった。
電気が付いていない、太陽光だけの教室。
暗くはないが、明るくもない。
あたしは窓際まで行った。
見上げると、太陽が見えた。
昼の太陽は高い。
なのにあんなにも輝き、地上にいるあたしにも光を与える。
それは眩しく、直視出来ないし、近付く事だって殆ど出来ない。
東京スカイツリーに登ったとしても、まだ程遠い。
いっそのこと、近付くだけ近付いて、焼け死のうか。
そんな事さえ考えてみた。
「馬場ちゃん!」
忌々しい声が聞こえた。
仕方ない、この男を待っていたのだから。
「で、何?」
振り向かずにそうとだけ言った。
何故、あたしは会う事にしたんだろう。
ずっと無視してたし、今日も帰るつもりだったけど、来てしまった。
恐怖心の為、きっとそうに違いない。
あたしは自分を納得させた。
だが、それなら今までシカトしていたのはどうしてだろう?
危険じゃないか、相手はあたしの弱みを握ってる。
あたしは武器一つないのに。
それにしても、本当に分からない。
自分のことも、この男のことも。