瀬谷はぱくりと一口でその卵焼きを食べた。
「じゃあ人生80年ってどう思う?」
苦手なものを聞いただけなのにいつの間にか、卵焼きから人生の話に。
困惑している翔を見ながら瀬谷は笑っている。
「長い……かな。あと60年ちょっともあるんだなー。って凄い遠くに感じます」
「そうだね。……でも僕は80年なんて言わずに100年でも200年でも生きていたいって思うんだ。同じものも見る人が違うだけでこんなに違う」
瀬谷は引き出しに定規を戻す。
「だから最初の質問に戻るけど。大事なのは苦手なものが何か、じゃなくて、それをどうやって克服していくのか、折り合いを付けていくのかだと思うよ」
「はい。」
「えっ?」
瀬谷は卵焼きの最後の一つを取って翔に渡す。
「どうぞ食べてみて」
にっと笑う瀬谷。
「あ、はい」
翔は自分の家の卵焼きより太い瀬谷の卵焼きを、瀬谷の様にいっきに口に入れた。
モゴモゴとする口の中にふわっと甘い卵焼きの味が広がる。
「どうかな?」
「あ、はい。甘くて美味しいです」
「そっか。じゃあやっぱり僕と一緒だね」
昼休みも終わりに近づく中、まだ3人は屋上にいた。
そこに翔がとぼとぼと帰ってきた。
「翔。どうだった?」
「瀬谷先生は何だって?」
翔に気付いた勇気と直也がそう言った。
翔はゆっくりと2人の前に座る。
「うん、甘い卵焼きは美味しかったよ」
「「はい?」」
2人の顔を見て、翔が笑う。
「んー、だからさ。瀬谷先生ってやっぱり格好良いなって」
そう言って翔が立ち上がる。
「えー、なんだよそれ?」
「っていうか翔なんか清々しい顔してない?すっごい気になるんだけど」
勇気と直也がそれに続いて、美咲が後からついてくる。
「ま、やっぱり瀬谷先生には苦手なものなんてないってことよ。ね、翔?」
「あー、うん、そうかもね」
4人の笑い声が晴天の空に、始業のチャイムと共に響き渡っていた。
4月も終わりの水曜日。
空は曇り。風は若干あって、草がさらさらと擦れる。
「ユーキ、おはよう」
バス停でバスを待つ勇気の元に翔がやってきた。
「おう、おはよ」
通勤のサラリーマンが2人。
隣町の病院に行くいつものおばあちゃん。
そして勇気と翔がバス停に並んでいる。
「…………くすっ」
すると突然、翔が勇気を見て笑いだした。
「なっ、なんだよ?」
いきなりのことに驚く勇気。
「ううん、ごめん。ユキあれからずっと、バス停にいる時すごいぼーっとしているんだもん」
あれからずっと。
勇気は確かに翔の言う通りで、無機質に流れていく通勤の車をじっと眺める。
「……単純にさ。また会えたら良いのになって思う」
「うん、そうだね会えたら良いよね」
「あれ?沙織(さおり)また香水変えた?この前の気に入ってたみたいだったのに」
勇気達の後ろを通り過ぎていく2人の女子高生。
緑色の可愛らしいラインの入ったチェックのスカートにブレザー。
襟元には赤いリボンを結んでいる。
「うん、この前のやつは調度使いきったから、今日はベルガモットって言う精油を使った香水にしてみたんだ。香代(かよ)はこの香りどうかな?」
「良い香りだね。でも私は、この前の……カモ?カモル……?」
髪を両サイドで2つに縛った小柄な藤原香代。
香代はあいまいな記憶を必死に思い返す。
「カモミール。カモミール・ローマンっていう精油だよ。りんごみたいなフルーツっぽい良い香りだったでしょ」
背が高く黒い艶のある髪を背中まで伸ばしているのが進藤沙織。
2人は地元では有数の進学校に通う生徒である。
「……あ、またいた」
沙織はバス停で待っている中の1人を見て笑った。
「あれどこの制服かな?私立っぽいけど」
すれ違い様に香代がその制服を覗き込んだ。
「桜ノ宮大学附属?聞いたことないな」
「んー?私も知らないや」
三分後、バスが時間通りにバス停に着く。
朝のバスは座ることができない。
それどころか手すりすら掴めない時もあるから勇気は朝のバスが好きではなかった。
「ああ、今日も会えなかったな……」
時折一時間目の授業の前にホームルームが行われる。
たいがいが何か注意を受けたりする、生徒にしたらあまり嬉しくない時間。
「はーい静かにして」
クラス委員長の郡山亮平(こおりやまりょうへい)が前に出る。
「何だよ委員長、また誰か何かしたのかよ?」
ありきたりだが亮平のあだ名は委員長。
そのままだが、やはり馴染みが良い。
「いや、珍しくそうじゃないんだな」
亮平が黒ぶちのメガネの奥で優しく笑う。
「え、なにもしかして褒められんの?だれだれ?まさか……オレ!?」
クラス1のお調子者、吉岡元気(よしおかげんき)。
名は体を表すと言うが彼はまさにそれ。
クラスのムードメーカー的な存在だ。
「いや無い。元気が褒められることはまず無い」
クラスに笑いが起こる。
「ま、誰かが誉められるわけでもないんだけどね。実は来週の水曜日に我が桜ノ宮大学附属の恒例のイベントがあります」
昼休み屋上。
「スポーツデイかぁ。そういえばそんなイベントあったね去年」
翔の今日の昼食はハムサンドとメロンパン。
「あ、翔がまたメロンパン潰してる」
「へ?皆はやらない?」
メロンパンを平らに潰す翔を見て勇気が笑った。
「やらないわよ普通。メロンパンは外のサクサクと中のフワフワが命なんじゃない」
美咲は母親特製のスタミナ弁当。
大盛りの焼き肉に目玉焼き、彩りにパプリカの香味炒めも。
とにかく美咲はよく食べる。
「えー、だってメロンパンって大きくて食べにくいんだもん。ユキもやるよねぇ?」
勇気に助けを求める様に言う翔。
勇気はカレーパンをかじりながら言う。
「ゴメンやらない。てか、あんまりメロンパン自体食べないかな。オレはカレーパンとジャムパン一筋」
カレーのスパイスの香りが柔らかい春風に乗り、のんびり昼寝モードに入っている男の鼻をついた。
「ふあ。あー、ユキ美味しそうなの持ってるー。ちょっとちょうだいよ」
直也がゆっくりと身体を起こす。
「別に良いけどナオ弁当は?」
「んー、なんか玄関に置いてきちゃったみたい」
「で、なんだっけ来週の……てやんでい?」
勇気から半分もらったカレーパンをかじる直也。
「違ってナオ。べらんめいだよ、な、翔?」
2人とも真面目な顔して言うのだから、困ったものである。
「な、じゃないよ。スポーツデイだよ。何で2人とも若干江戸っ子みたいな口調?」
「なんかあれよね、学年ごっちゃ混ぜで一日中スポーツする」
美咲は口元に指を当てて空を仰ぐ。
ゆで卵の膜みたいにうっすらと記憶が蘇る。
「え、そんなんあったっけ?」
「えー、オレも知らないよそんなイベント」
勇気と直也はすっかり忘れてしまっている様子。
「ユキは何気に楽しんでたと思ったけどね。あ、そういえば美咲は何か賞品もらってたよね」
「あー、もらったもらった。すっかり忘れてた」