カモミール・ロマンス

美優はキッチンで二人分の飲み物を用意する。

透明などこにでもあるグラスに冷凍庫の製氷機で作られたちょっと歪な氷を3つずつ入れて、オレンジジュースをたっぷり注いだ。

グラスに注がれるオレンジの液体を見つめながら世界から時間の流れがなくなってしまったかのように感じた。

丁度真上の部屋には大好きな人が待っている。

でも本当に待っているのは自分の方だと少しだけ悲しくなったりもした。

「あ、溢れちゃった」

2杯目のジュースが口切いっぱいまで注がれて、あふれだした。

美優はとっさに唇をあてる。

「こっちは私のにしにとね」

お盆に乗せた。

左が美優の、右が翔の。

あふれ出た分を飲んでもなお、揺らしたらこぼれそうだったので美優はゆっくりと慎重に持って上がっていく。

クマの看板をじっと見つめる。

看板のその先を。


扉を開くと、おそらく翔は一歩たりとも動いていなかったのだろう、ジュースを取りに行く時と同じ場所で同じポーズを取っていた。

「おまたせしました」

美優に気がついて翔が笑う。

「ありがとー。重そうだね、持つよ」

「えっ、あの・・・!」

お盆を思わぬ形で渡す羽目になってあわてる美優。

渡した時に反回転、翔が何故かテーブルを半周してお盆を置いたから、更に反回転。

しかもそこから右のコップを左側に置いて、左のコップを右側に。

「うそ、分かんなくなっちゃった・・・」

翔はもとの位置に座る。

すると何故か立ちすくんでいる美優に気がついた。

「美優ちゃん?」

「あ、はい」

「どうしたの?座らないの?」

翔の声に我に返るがあわてている。

「あ、はい!座らせて頂きます。失礼します!!」

自分の部屋の自分のお気に入りのクッションに腰掛けるのに、なんでそこまで仰々しいのか。

その美優の姿を見て翔はぷっと笑った。

「え、な何ですか!?」

美優は顔を赤らめている。

翔は笑顔のままで言う。

「ははは。いや、緊張してたのは僕だけじゃないんだなと思って安心したら笑っちゃったんだ」

「・・・翔くんも緊張してたんですか?」

「うん。だって好きな子の部屋に来るのなんて初めてで、美優ちゃんが部屋でてからどう座っていたら良いのかも分からなくなるし、

どんな顔してジュースを持ってきてくれた美優ちゃんを迎えたら良いんだろう、なんて言ったらいんだろうって」

眉をひそめて笑う翔が愛しくなった。

「え、美優ちゃん・・・?」

美優は翔の隣に腰掛けて、左手を翔の右手に重ねた。

重ねた手のひらから順に腕が、肩が密着していく。

「ごめんなさい翔くん。私も緊張していたって言ったけど、それはちょっと違くって・・・」

瞳を見詰めたままで美優の顔がどんどん近付いてくる。

翔は身動きが取れないままで固まっている。

オレンジジュースの香りを急に感じた瞬間に、二人の唇が優しく重なった。

瞳を閉じている美優の頬が赤いことと、まつ毛が長くて影が落ちていることだけが印象に残った。

俗に言う「甘酸っぱい味」だとか「マシュマロみたいな柔らかい感触」だとか、初めてのキスでそれらを実感することは翔にはできなかった。

「美優ちゃん」

翔は驚きの表情で、これまでにないほどに顔を真っ赤にしていた。

美優はほんの僅か視線をそらしながら小さな声で言う。

「もう!女の子からするのって恥ずかしいんですからね」

ふがいないとか、男らしくないとか、悪いことさせちゃったなとか、そんなことよりもまず、美優のその姿を純粋に可愛いと思った。

「あ、その・・・ゴメン」

頬を膨らませているのは照れ隠しだった。

「良いですよ。

でも・・・今度からは翔くんからしてくださいね」

そらしていた目線が急に上目づかいで重なった。

「あっ・・・はい」

そうして二人はオレンジジュースを口にした。

部屋に入ってきた時の重苦しい空気は何処かへ行ってしまったようで、それから1時間、美優の中学生の時のアルバムを見たりして過ごしたのだった。













昨日の感触を思い出そうと何度か自分で唇に触れてみたが、その感触を思い出すことはできなかった。

「おはよ!」

「・・・ふぇっ、わ、ユキ!おはよう」

慌てる翔に勇気は気付いた。

しかしそこは流石の鈍感ボーイ。

「朝食べてないから腹減ったー」

普段と様子の違う翔に対して「何かあった?」の詮索の一言すらない。

「ご飯はちゃんと食べようよユキ」

「分かってはいるんだけど朝はなかなかなー」

朝飯を抜いた自分を保護する為の眠気アピールなのか勇気はしきりにあくびをしている。

「翔は今日も部活?」

「まあ大会近づいてきてるしね。なんで?」

「いや、特に用事とかではないけど暇だったら一緒にプラプラしたいなと思って」

翔は心のどこかでその誘いを承諾したかった。

「キャプンが休んでたら示しがつかないからね」

「サッカー部は頑張ってると思うけどな・・・」

「ありがと。でももっともっと頑張んなきゃね」

その言葉を口にした瞬間に、自分を見下して笑っていた圭佑の顔が頭にちらついた。

それを振り払うようにして翔は笑顔を作る。

「新しく入ってきた1年生とはうまくやってる?まあ翔は優しいから問題ないとは思うけど」

鈍感なくせして、天然で悩みの核心をついてくるあたり勇気はさすがである。

翔はしばらく言葉に詰まってしまう。

それにはさすがの勇気も感づいたようだ。

「何かあったの?」

翔はわずかにうつむいて笑った。

「ううん。でも僕もゆきみたいに、何も怖がらないでぶつかれる勇気が欲しいなとは思う」

おそらく翔が圭佑に対して何かをしなくてもサッカー部は回るだろう。

歯車の一つについたサビだけなら残りの1年間で歯車の回転は止まることはないのだろう。

そんなことを考えてしまっていた翔にとってこの後の勇気の言葉は、鈍器で頭をガツンと殴られた様な衝撃であったに違いない。

「へ?オレは怖いものだらけだよ。

怖いから捕まらないように勇気出すんじゃないの?

翔が何で悩んでいるのか分からないけど、自分の気持ちが伝わらないのが怖いから言葉にするんじゃん。自分が諦めて、大切な友だちが離れていくのが怖いから、この前は必死でナオを探したんじゃん。翔は今怖いものをなくしたいの?」

「うわ・・・



ガツーンて来た」

「へ?」

翔は一人で笑って進んでいく。

勇気は本当に困った顔をしながら翔の後を追いかけていく。

望みは怖いものをなくすことではない。

怖さから逃げる自分を責めることでもない。

ただそれから目を背けずにありたいだけだった。

「ありがとユキ。今日の部活頑張るよ」

「・・・おう」

朝日は眩しいくらいに輝いて学生を照らしている。

その制服の数だけ毎朝ドラマがあることを知っているからだろうか。そんなことを考えようとして恥ずかしくなったので翔は考えることをやめた。


部活後に翔は圭介を呼び出していた。

グラウンドの端で二人は向き合っている。

「なんスか用事って?」

あからさまに面倒くさそうな態度をとる圭介。

常識的に考えたら部活動で新入生がキャプテンに向かってこんな態度を取れはしないのだが。

「うん実は」

翔はゆっくりと両の肩から重たい荷物を外していく。

それと共に幾つかの大切な物がこぼれ落ちるのを気付いていた。

翔の真っ直ぐな瞳に圭介は少したじろいだ。

「今さらだけど僕はキャプテンだけど、僕より上手い子は沢山いる。

圭介は新入生だけど、この部活で誰よりも上手い」

わざとふてぶてしい態度を取っていて、急に見つめられたかと思ったら誉められる。

圭介は混乱していた。

「僕はキャプテンとしてチームの土台となって頑張る。

圭介はプレーでどんどん皆を引っ張っていって欲しいんだ。練習メニューとかも良かったら一緒に考えてくれると助かるんだけど」

冗談じゃないことは翔の瞳を見れば分かった。

だがあえて圭介は聞く。

「別に良いけど。オレはあんたについていくつもりはないっスよ?」

圭介を見つめる翔の表情は変わらない。

そして感情があまり読み取れない普段となんら変わらない声色で答える。

「僕についてくる必要はないよ。だってこれからは僕達でチームを引っ張っていくんだから。

僕はキャプテンで、そう圭介」

夕日が照らしたのは優しさの中に強さを秘めた翔の笑顔。

「君が司令塔」

軽くなった肩。

プライドはこぼれ落ちて、そして大切なものを拾う。

「司令塔って……オレ、MFじゃねえっての」

背を向けた圭介。

その身体が反転するまでの間に頬が自然と上がっていったのを翔は見てしまっていた。

「これから宜しく。お疲れさま」

「……っす」

すぐに隠れた太陽。

心もとない街灯がグラウンドを照らしている。

職員室と二年生の教室の一つにだけ電気がついている。

また一つの青春を隠して日は塗りかわる。




そうです皆さん。

この季節がやってきました。

年に一度の大イベント「桜ノ宮大学附属高校スポーツデイ」の日が!!

「お忘れになっている方々の為に、ちょこっと説明をば」

急に教壇に立ったかと思うと、ナレーターばりのトーンで喋り出した元気。

「あいつ何やってンの?」

「さぁ?ほっとけば」

クラスの全員。

気持ちいいまでに誰一人として耳を傾けない中でも元気の心は折れない。

「桜之宮大学付属高校のすぽーつでいとは、年に一回一年生から三年生までがごちゃまぜになり一日中スポーツをして交流深めましょう!という目的のもと催されるイベントだ」

ちなみに元気は実行委員会でも何でもない。

「競技自体はチーム戦にも関わらず、毎種目毎にチームが変わり、その競技の順位で個人にポイントが加算されていく仕組み。

つまり運さえ良ければ運痴くんも強いチームにずっといたら個人優勝が可能という、よくよく考えたら素晴らしい得点方式になっている」

教壇で気持ち良さそうに喋る元気を横目にクラスメイト達は次の音楽の準備の為に一人、また一人と教室を去っていく。

そんな中でただ一人物思いにふけっているのか机から離れずに窓から外を眺めている人がいた。

無論、元気はそんなことに気がつかないし、仮に気がついたとしても弁舌を止めないだろう。

「一日中スポーツなんてかったりぃ。そんな我々高校生をやる気にさせるのが豪華賞品。

前年度の優勝者には鴨川シーワールドチケット、二位にはスターベックスクオカード、三位はメクドナルドのクオカード。こんな憎くい賞品用意されたらやるっきゃないでしょ!

いつやる気出すの?
今でし『キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン』

止めの全快物真似の台詞をチャイムに遮られ、元気はそれから3分くらい動くことができなかったそうな。

それを見ていたのは美咲だった。



「もう3年にもなって言うのもあれなんだけどさ……」

「ん、待ってそれ心当たりあるかも」

「あー、うん」

勇気と直也と翔が自分のクラスへと戻るために廊下をだらだらと歩いている。

その手にはメガホンの様に丸められてしまった英語の教科書が握られている。


「…………

ぬしたち」

ぽそっと溢したのは勇気。

「ぷっ、はっはっは」

「……くっ」

それを聞いた直也と翔が一斉に吹き出した。

勇気はそれを見て追い討ちをかける。

「何を笑っているのだね主達」

「くっくっ、ぷあー。

やめて、主達やめて」

「ユキしかも何気に声真似似てるとか反則!」

げらげらと笑う三人。

その声真似の主が後ろから近づいていることなど気づいてもいない。

「おいおい、主たち」

「だから、もう止めてー」

「いや、主達!」

「ちょ、ホントに止めなよユキ。

ってあれ?今後ろから聞こえた?」

「主達、主達!主達!!」

三人は恐る恐る振り返る。

「何の話をしているのだね?主達」

そこにいたのは瀬谷と同じ英語の講師である乙黒であった。

「乙黒先生いつから?」

「主達が英語の教科書を丸めるあたりから居たぞ」

「………ほう」

乙黒は表情が読みにくい。

ポーカーフェイスといえばポーカーフェイスなのだが無表情ではない。

笑顔のポーカーフェイス。

そのツルツルなはずの眉間に少しずつ皺が寄っていくのは恐怖以外の何物でもないのだろう。

「人様をバカにしおって!このバカ者共めがー!!!」



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