カモミール・ロマンス



気付けば三時間が過ぎていて、2人は帰る時に数点の作品が載っている小冊子を買った。

エレベーターでゆっくりと、胃がふわりとする感覚と共に、現実へと戻っていく。


白い空間から出ると、灰色のビルと青い空が広がっていた。

勇気は何故だか安堵して、胸を撫で下ろすのだった。

「ユキ……?」

「えっ?」

突然に名前を呼ばれた勇気が振り返るとそこには美咲の姿があった。

美咲の手には沙織が持っていたパンフレットと同じ物が握られている。

「な、なんで美咲がここに?」

突然現れた美咲に沙織も驚いていた。

「私はこの人の作品好きで、よく展覧会は見に来てたから……

あんたこそ何でここに?って……あ、もしかして」

美咲は勇気の隣に立つ女の子を見て察した。

同時に胸がズキッと痛んだ。

「あ、えっと私、山田川女学院に通っている進藤沙織って言います」

ぺこっと頭を下げる沙織。

「あ、私はユキと同じ学校の高田美咲……

そっか、あなたが」

美咲は次の言葉を飲み込んだ。

悟られないようにそっと、確かに。

美咲はゆっくりと歩きだす。

そして勇気の横まで来た所で言う。

「ま、楽しんで帰りなさいよ」

精一杯の強がりで作った笑顔と声。

すぐに美咲は歩きだす。





「あ、あの……!」







後ろからの声に美咲が振り返る。

「わ、私も佐竹さんの作品が大好きで……

その……


もし美咲さんさえ良かったら後でお話できませんか?」

沙織はまるで告白をする男の子の様に、顔を真っ赤にしながら言った。

呆気にとられる勇気と美咲。

美咲は一度だけ眉をひそめて、笑った。

「うん、喜んで。

私の連絡先はそこの隣にいるウジウジ虫に聞いてね」

「だ、誰がウジウジ虫だ!!」

美咲が沙織にもう一度笑いかけると、沙織も満面の笑顔を返した。

美咲は入り口に吸い込まれていく。

「可愛い子だなぁ……」

小さな呟きがロビーにこぼれた。

誰にも聞こえないそれが、言った美咲の胸をぎゅっと締め付ける。


「私はずっと傍にいたのに……ずっと」











美術館を出た勇気と沙織は角のクレープ屋でクレープを食べてから家に帰っていった。

はたから見たらデートの様だけどそうでもなさそう。

はたから見たら恋人の様だけどそうではないらしい。

そんな微妙な2人だけの距離で、ゆっくりとゆっくりと2人は近づいている。













「集合!!」


グラウンドの真ん中で翔の声が響いた。

渡部コーチの隣で、声を出した翔。

まだまだ頼りない部分もあるが、キャプテンとしての仕事をこなしている。

「それじゃあコーチからお話を頂きます。

渡部コーチお願いします」

渡部はゆっくりと一歩前に出た。

桜ノ宮附属高校は万年一回戦負けの弱小チーム。

弱いだけならまだしも、年々部員数は減り、去年はベンチメンバーも含めギリギリの15人。

11人いた上級生(うち1人、笠井は途中でマネージャーとなったが)は卒業してしまった。

今は3年生は翔だけ。

2年生は3人。

部活紹介で翔が頑張ったおかげなのか、新入生はチームとしてギリギリ足りる7人が入った。

「あー、皆も分かっている通り、うちはベンチメンバーすら居ない状態だ。

言うまでもなく不利。しかし不利なチームが必ずしも弱いわけではない。」

しかしそんな状態でも翔の中には希望があった。

新入生が7人入ってくれて、ちゃんとしたチームとして試合に望めること。

そして。

「山田新キャプテンの指導の元みんな頑張って欲しい」

渡部の言葉に「はっ」と鼻で笑った新入生が1人いた。





それに気付いた翔がちらりと、その新入生を見た。

植村 圭介(うえむら けいすけ)、中学時代は県大会で優秀選手として表彰された。

攻撃的なプレーでチームを引っ張り、県下でも有名な高崎商業から特待生の誘いがあったようだが、何故かその話を断り、ここ桜ノ宮附属に入学している。

「まずは目の前に迫った、三島工業との練習試合に備えて練習していこう。

今日はここまで」

「「「ありがとうございましたー!!」」」

グラウンドに声が響く。

「すまんが山田はちょっと良いか?」

「はい」

渡部に呼ばれた翔が校舎へと歩いていく。

その姿を圭介がじっと睨み付けていた。









渡部と話をしていた翔が、部員達に10分遅れて部室に入った。

「……あれ?皆もう帰っちゃった?」

部室に残っていたのは2年生が3人と、1年生が1人だった。

「さっさと着替えて、ぱーって帰っちゃいましたよ」

2年生の3人うちの1人、吉沢がそう言った。

翔は自分のロッカーの前まで行き、ロッカーを開けた。

一番奥の右手側。

そのロッカーは代々のキャプテンが使っていた場所で、ロッカーの内側にはメッセージが残されている。


そのメッセージの一つを翔は指でなぞる。

「じゃあ、うちらも帰りますね。キャプテン」

「うん、お疲れさま」

翔を残して部員達が部室を後にした。

翔はユニホームを脱ぐ。

タオルで汗をふいて、さらさらシートを使い、制汗スプレーをする。

制汗スプレーのヒヤッとした感覚が、妙に肌を刺激した様に感じた。

「……難しいもんだな」

翔の呟きがそのロッカーに吸い込まれる。

きっと今までもこれから先も、このロッカーは悩めるキャプテンの怒りや呟きを飲み込んでいくのだろう。

「頑張れ、頑張れ僕」










部室の鍵を閉めた翔が、誰もいない校庭を横切っていく。

グラウンドを歩いているとほんの少し前のことを思い出してしまう。


去年までは楽しく部活をしていた。

弱かったけど、みんな楽しそうに。

今はどうか?考えると少し怖くなる。

皆はちゃんと部活を楽しいと思っているのか?

自分はキャプテンとして皆にそう思ってもらうことができているのか?

「……るな」

翔は首をふる。

「弱気になるな!」

そして自分の頬を両手でパンと叩く。

自分に活を入れて、翔は不安を振り払う様に歩調を早めるのだった。

活を入れただけでは拭いきれない不安。











「翔くん」








校門を出ると声がした。

その方を見ると、そこには美優の姿があった。

「美優ちゃん。

もしかして待っててくれたの?」

美優の顔を見て翔は胸の奥にあるそれが和らいだ気がした。

目を背けているだけだとは思いもしないで。

「はい、翔くんのこと待ってました。

一緒に帰りましょ?」

「うん!」

小走りで美優の傍に駆け寄り、翔は美優に手を出した。

美優は笑顔で手を繋ぐ。


「聞いてくださいよ。今日ね……」


他愛もない話。

今はただサッカーのことを考えなくて済むことが救いだった。

少しだけ後ろめたい夕暮れ。

輝く様な美優の笑顔が胸をざわつかせる。







美優を家まで送るために歩いていく。

美優の歩幅は狭い。

翔は意識して歩幅を狭めている。

「この前言ってたドラマ見ましたか?」

テレビの話、学校の話、お互いの友達の話、弱音だって言い合える。

そんな関係が二人にはとても心地がよかった。

「えっと美優ちゃんの好きなマエケンが主演のやつだったよね。

ビデオに録画したけどまだ見れてないや」

「もう、ちゃんと見てくださいよ?

私もっともっと翔くんと色んな話したいんです。
私のことをもっと知ってもらいたいし、翔くんのこともっともっと知りたいから」

「うん……僕もだよ、美優ちゃん」

何か不満があるとしたら、付き合いはじめてそろそろ半年が経つのにまだキスもしていないこと。