カモミール・ロマンス



美咲はふと「ひとの耳は良く出来ているな」と思った。

昼休みのガヤガヤとした教室の片隅に居て、お世辞にも声が大きくない真央の声が届く。

それはサラッと美咲の中に入ってきて、ビックリするくらいに強く胸を打った。

「ゴメン真央、ありがとう。

でもね、本当に今は大丈夫だよ。ほら私の勘違いかもしれないし」

美咲は笑顔を作ってそう言った。

能面みたいな笑顔。

「何かあったら私に相談してね?」

その笑顔のままで美咲は頷いた。

「うん、約束する」

「約束?本当に?」

「やだなぁ真央ってば、本当だって」

真央は小さく唇を噛み締めて、小さな手を出した。

「じゃあ指結びしよ」

「ゆびむすび?……指きりじゃなくて?」

真央は左手で美咲の右手を掴んで、お互いの小指をむすんだ。

「指きりは嘘ついたらどうこうって言うから私は嫌い。

だってそうでしょ?それってまるで何処かで相手を疑っているみたいじゃない。

私は美咲のことを信用しているからそんなこと言わないわ」

真央の小指にぎゅっと力が入っていた。

そこから真央の気持ちが伝わってくるような気がして美咲は力を入れれずにいた。





「美咲」

真央のいつになく力強い呼び掛けに美咲ははっと目を向けた。

「私は美咲の力になりたい。その為にどんな苦しいことがあったって私は耐えられる。

この指に誓って?本当に苦しくなったら私を頼ってくれるって」

美咲は開こうとした口をむすぶ。

そしてそれを飲み込んで、「約束するよ」と小指を強く握った。

「さ、ご飯食べよう?もう休み時間あと5分しかないよ。

残したらお母さんに怒られちゃうよ美咲?」

真央はウサギの並んだ子供用の箸を手に取る。

「何よ。私は食べきれるけど真央こそ食べられるの?お残り給食の常習者だったくせに」

「そ、それは小学生までの話でしょ!

もー、美咲なんて知らないんだから」


笑いながら残っていた弁当を口に運ぶ2人。


美咲は1分そこらで完食し、真央はチャイムが鳴る間際にやっとのことで弁当を食べ終えたのだった。








放課後の教室に美咲だけが残っていた。

遠くから吹奏楽部の練習の音が、教室に響いていた。

「大丈夫だよね……?

だって私には真央や翔がいるもん。ナオだっていざって時には頼りになるし……ユキだって」

美咲はくしゃくしゃになった手紙を開く。


これ以上木村君達に近づくなブス。
いつも男とばっかり居て、どんだけ男好きなんだよ、気持ち悪いんだよ』

ポタっと手紙に雫が落ちて、水性ペンがじわりと滲んだ。

美咲は手紙をぐしゃっと握る。

力なく背中が震えていた。

「……うっ。なんでこんな」

結んだ小指がチリチリとして美咲は手を広げる。

「……負けない。こんなことに負けてたまるもんか。

真央を……真央を心配させてたまるもんか」

美咲は丸めた手紙を校舎裏の焼却炉に捨てて帰った。

この日から美咲は勇気達と屋上で昼ごはんを取ることを止めた。










夜11時35分。

『ピロリロリー♪』

ベッドに入ってうとうとしていた勇気の携帯が鳴った。

その着信音に勇気はバッと飛び起きる。

それはある人からのメールにだけ鳴る様に設定された曲だったからだ。

勇気は携帯を開き、届いたばかりのメールを読む。


『こんばんは。
今予備校が終わりました。

来週の文化祭だけど、少しだけなら顔出せそうです。

準備とか大変だろうけど、楽しみにしてるから頑張ってね。

沙織』

読み終えた手がプルプルと震え、勇気は声にならない叫びをあげながら両手でガッツポーズをした。

「やばい……超楽しみ。やばい……文化祭やばい」

勇気は携帯を閉じて、また布団に入った。

目を瞑ると沙織のことばかりを考えてしまって、自分でしてるのに照れてしまう。

「……ああ、早く会いたいよ」

小さな呟き。

半月より少し欠けた月がカーテンからほのかな光で照らす。

そんな光の中で勇気はゆっくりと眠りについた。







そして文化祭当日。

『桜ノ宮大学付属高校文化祭』略して『桜宮祭-オウグウサイ-』が始まった。


校門から校舎まで所狭しと並ぶ屋台。

たこ焼き、焼きそば、フランクフルトに肉巻きおにぎりの香ばしい香りが朝早くから漂っている。

その隣を見れば、輪投げや、輪ゴム鉄砲の射的、ピンクアフロのマネキンが佇むパイ当てゲーム屋などというのもある。

他にも綿飴やチョコバナナなどお祭りらしいものが沢山だ。

「おーっす、お前等働いてるかぁ?」


二年一組のブースにやってきた人物に、忙しく作業をしていた皆の手が止まった。

「あ、ああ、あんたは……」


「え、なに?」

だらしなく伸びた無精髭。

ぼさぼさとした黒髪、やる気の見えない瞳。

クールビズと自称するあからさまにダラダラ着た無地のワイシャツ。

「あんたは二年一組にまことしやかに居るとされていた幻の担任……ヤル気無い男(やるき ないお)じゃないか!!?」

「誰がヤル気無い男だ。

オレは柳瀬 夏生(やなせ なつお)だっつの」

「や、遣る瀬ないっつーの?」

「やなせ!なつお!!だ!!!」


柳瀬の登場に場が和む中、たった1人だけ怒りに身体を震わす者がいた。






その人物がゆっくりと柳瀬の背後を取った。

ズレてもいないメガネを指でくいっと直す仕草にすら威圧感を感じる。

「ふふふ……これはこれは柳瀬先生様ではありませんか」

「こ、これはクラス委員長の郡山君ではありませんか……

ご機嫌……宜しくないようですね」

柳瀬の顔が滝の様な汗で包まれる。

「ええ、見ての通り柳瀬先生様にこうして再び出会えた喜びで、震えが抑えられないほどですよ。

それで?この3ヶ月クラスを僕に放り投げられて、柳瀬先生様は何をしていらしたんでしょうか?

そこのところ詳しく……お聞かせ願えますよ、ね?」

メガネの奥でギラつく亮平の瞳。

柳瀬はヘビに睨み付けられたカエルの様に縮こまり、震える声で「はい」とうなずいた。

亮平がクラスメイトに振り返る。

「それじゃあ僕は担任の柳瀬先生とお話があるから、後は皆宜しくね」

にっこり笑った亮平。

しかしその背後に見える怒りのオーラに皆口を開くことができないでいた。

「あ、そうだ大野さん。

もしかすると後夜祭にも僕は間に合わないかもしれないから、その時は僕の代わりに司会進行宜しく。

じゃあ、みんな桜宮祭を楽しんでね」

ずりずりと柳瀬を引きずって亮平は校舎の何処かへと消えていったのだった。










後日、クラスメイトのOさんは当時のことをこう語った。



あの時はちょっとした冗談だと思っていたんです。

それがまさか本当に後夜祭まで来ないなんて思わなくて……

私、司会進行とか向いてないし、文化祭の最中にも何度も何度も校舎内を探したんですけど

ど、何処にも委員長や先生の姿がなくて……

でも、その……私、確かに聞いたんです。


三階の廊下を歩いている時に男の人の取り乱した様な声で、必死で誰かに謝っているのを……


※プライバシー保護の為、音声は変えております。






これが後に桜宮祭七不思議と呼ばれる、居るはずのない担任伝説である。








「…………である」


「さっきから何ぶつぶつ言ってるのユキ?」

亮平に連れていかれる柳瀬を見ながら勝手にアフレコしていた勇気。

すかさず(ちょっと面白かったので、切りの良いところで)翔が突っ込みをいれる。

「今日、沙織さん来てくれるんだったよね。楽しみだね」

にっと笑う翔。

勇気は頷いた。

「すっごい楽しみ過ぎて眠れなかった。

早く今日が来れば良いのにって思うのに、何処かで今日なんか来なければ良いのに……って。

はは、わけわかんねぇよな」

そう言った勇気の後ろで呆れた様に言ったのは美咲だった。

「本当わけわかんない。

あんたバカなんだから、そんなこと考えずに楽しんだら良いじゃない」

「ったく」と言って肩をすくめた美咲。

勇気は立ち上がる。

「そうだな。うん、そうだよな。

美咲の言う通りだよな」

焼きそばの野菜を手に持ちながら勇気は豪快に笑った。

美咲が屋台から離れようとすると、直也が小さく声をかける。

「意地っ張り。

でも……よく言えたな」

美咲は「ふん」と返事もせずに屋台を離れた。

その瞳には涙が溜まっていたが、その雫が地面を濡らすことはなかった。







桜宮祭は高校のイベントにしては規模が大きく、毎年休日に催される為に他校からの参加も多い。

心なしか女生徒の参加が多いのは、桜ノ宮付属は男子のレベルが高い。と言われているからかもしれない。

「へぇー、サッカー部は大喜利大会やるんだ」

プログラムを見ながら勇気が翔にそう確認した。

「うん。キャプテンが祭と言ったら大喜利だろう。って皆の意見も聞かずに……」


「はは、相変わらず面白い部活だな」

「うん、でも、あと少しで先輩達は卒業しちゃうんだよな。

来年は僕がキャプテンだなんて……」

翔が次のキャプテンに任命されたのは、ついこの間のことだった。

2年生は翔1人しか居ないのだから当り前と言えば当り前なのだけれど、その重圧は翔が考えていたよりも大きかったようだ。

「ならあと少しで沢山の思い出を作らなきゃだな。

今日はあれなんだろ?なんとかって先輩も大喜利に参加してくれるんだろ?」

「うん。笠井先輩も来てくれるし……

よぉーし、今日は楽しむぞぉ!」

そんな翔を見て、みんなが優しく笑った。

桜ノ宮付属高校文化祭は色んな人の想いを包んで進行していく。