<夏歩SIDE>

 いざピアノの前に座ってみても,私の頭の中は今しがた見たギターの先生のことでいっぱいだった。あとの2人のことなんてすでに忘れてしまっていたし,あえて言うなら,今からレッスンが始まることすら頭から抜け落ちていた。
「ほら,いつものから!」
ほんわかしている私に,しびれを切らした先生が早口で言った。
「はあい」
まだ夢心地ながらも返事をして,"いつもの"―指慣らしのカデンツ―を始める。指がもつれて上手くできなかったけれど,いつものことだ。そうやって指慣らしをしているうちに,私はとあることに気がついてしまった―やば,今日なんも練習してきてないや…。
そうはいっても,カデンツだけで30分のレッスンを乗り切るのは,夜空に散らばる星をひとつ残らず数えろというくらい無理な話で―あっけなく,3分もかからずに終わってしまった。
「はい,お疲れ!夏歩ちゃん,私今日いっぱい楽譜持ってきたわよ」
先生が朗らかにそう言うので,私はぽかんとして首をかしげた。
「楽譜…ですか?」
「そ!今弾いてるの,たぶん今日で終わるじゃない?だから次弾く曲選ぶって,先週いってたの忘れたの?」