「何者だ」

孝廉はますます危機感を募らせた。

目の前にいる男は飄々としている。
穏やかな表情と仕草は武人には見えない。

「まあ待てって、落ち着け。俺はあんたを死海で拾ったんだ。感謝しな、俺はあんたの敵じゃあない」

「何者だ」

穏やかな笑みを浮かべる男に、孝廉は再度繰り返した。

「人に訊く前に自分が名のるべきだろう?まあ、いいか?俺は李漢だ。旬李漢。出身は泰国の小さい村だ」

「旬……李漢」

 李漢は殺気が揺らぐのを見逃さなかった。

 その白く細い手足が短刀の重みに耐えられなくなったのか、はたまた、不安と恐怖からか、小刻みに震えている。

 途端に、李漢は自分を怯えた瞳で見据えるボロボロの異国の衣を纏った少女が憐れに思えた。

「お嬢さん、あんたにその短刀は似合わん」

 孝廉の右手から短刀がこぼれおちた。
大きく、見開かれた瞳からは、短刀の後を追うように、静かに滴がこぼれて床に黒い影をつくっていく。

 孝廉は床に膝をつき、胸の前で手を組み、深々と頭を下げた。

「数々の無礼をお許しください、李漢殿。我が名は椿孝廉と申します。我が祖父、孝達より文を預かり、泰国の都、湖連より参りました」

 足元に膝まづく少女は先ほどの、禍々しい殺気とはうって変わって、恐ろしく澄んだ空気のような、凛とした気品を全身に纏っていた。

 死海の砂や塵でくもってはいるが、その肩から垂れる漆黒の長い髪。
涙に滲んでこそいるが、その奥に秘める、強い意思。
およそ歳に似合わぬそれら全ては、彼女が貴族の誇りを背負っていることを象徴していた。

 李漢は彼女の前にしゃがみこむと、頭を上げさせ、手でその黒く長い髪をすいた。

「よくもまあ…ここまで無事に来れたもんだ」

 李漢には孝廉が大罪を犯した詳しい経緯も、彼女の身の周りに何があったのかも、見当もつかなかった。

 ただわかるのは、今も湖蓮の都にいるのであろう、敬愛なる自分の師に託された彼女を、守ってやらなくてはならないということだった。